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COLUMN

嘉門タツオの「愛めし」

訪れた飲食店は三千店超。嘉門タツオが大好きな「愛のある店」を2018年~2020年にかけて日刊ゲンダイに綴った連載コラム。食べて感じて・・・歌が生まれることもありました。2026年の追記つき!

01第1回路地裏のコックピット 鳥しき
嘉門タツオの「愛めし」第1回 路地裏のコックピット 鳥しき(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

デビューして35年。訪れた飲食店は三千店を越えた。ここでは僕が大好きな「愛のある店」上位五十店を毎週紹介していこうと思う。

記念すべき第一回は「鳥しき」。もう百回以上通っていて、いつもワクワク感を抱いて目黒の路地を下る。

店主の池川さんは、生まれ育った下町の商店街にあった焼き鳥屋に魅せられ、小学三年生の時に将来はこの道に進む!と決意。大学を卒業後、焼き鳥を支持する社会人の生活を経験すべきとサラリーマンになる。休みの日にはあちこち食べ歩き経験を重ねる。二十六歳の時に中目黒の「鳥よし」を訪れて、今までの概念を覆された。フランス仕込みの洗練されたその世界観に憧れて弟子入り。そして34歳で目黒に自分の城を構えて十二年になる。

特徴は「近火の強火」だ。火力の強い備長炭で福島伊達鳥を一㎝の距離で焼く。焦がすわけにはいかないので、終始串を動かし続ける。炭にジュッと落ちた脂が煙となって肉を包んだ最高の瞬間に引き上げて迅速に客前へ。口に含むと、炭の力を感じる。捌きも串刺しも独特で、部位の周辺の脂を切り捨てず上手く纏わらせる。ハツモトや食道はクニュクニュした食感も楽しい。

存在感のある心臓、豊潤な軟骨、レア感が魅力の肝、半熟加減が神業のうずら、軟骨のコリコリ混じりのつくね、筋肉を感じる膝と次に打順を繋ぐ野菜たち。そして着地は親子丼にそぼろ丼。最強の焼き鳥オールスターズだ。またこれが実にワインに合う。お客の半分以上はワインを飲んでいる。

コックピットの焼き台に立ち、すべてを采配するねじり鉢巻き姿の池川さん。後ろに控える若い衆の的確な動き。厨房から時々こぼれる笑顔で登場する癒し系の女将さん。焼ける音、炭を割る音や香りもすべて味のうち。これぞ焼き鳥ワンダーランド。

しかし、この席を手に入れる門戸は狭く、毎月決まった日に電話して翌々月のプレミアムシートをゲットしなければならない。500回かけてようやく繋がる時もあるし、涙を飲む時もある。

池川さんは、焼き鳥を世界に広めたい!と言う。さらに「鳥になりたい!」と明言する。心なしか風貌や動きも鳥に近づいている気がする。翔け!世界へ!

2026年 追記

その後「鳥しきICHIMON」としてお弟子さんが海外含めて続々開店。まさに焼き鳥のステータスを上げ続けて快進撃は続く。僕のアルバム「至福の楽園~歌と笑いのワンダーランド」に鳥しきマインドを歌った「焼き鳥バカ一代」を5年越しで収録しました。

02第2回親方のおかげです 晴山
嘉門タツオの「愛めし」第2回 親方のおかげです 晴山(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

港区三田にある割烹「晴山」。オープンして8年目。四季折々の料理が実に楽しい和食界の雄だ。

店主の山本晴彦さんは栃木県足利市出身。抜きん出た才能もなくパッとしない少年時代を過ごしていたが、中学2年の時に転機が訪れた。共働きの両親が育てていた家庭菜園に茄子が実っていたので、時間つぶしに挽き肉と合わせて煮物を作った。帰宅した両親がそれを食べて大絶賛!料理で初めて両親を喜ばせる事が出来たのだ。それからは小遣いで料理本を買っては、作る楽しさを覚える。この道に進もうと決意し、高校を卒業して専門学校に入学。そこに講師としてやって来たのが、岐阜の料亭「高田八祥」の高田晴之さんだった。他の先生と比べて圧倒的に話が面白く、積極的に質問を投げかけたら納得いくまで教えてくれる。「この人のところで修業したい!」と真から思い、卒業後岐阜での生活が始まる。料理業界は縦社会。山本さんは新人ながら勘が良く親方からも可愛がられたので先輩にとっては目障りな存在だ。周りからの風当たりが強くなり、もうこれ以上耐えられないと1年勤めた頃にトンズラを決行。岐阜から栃木の実家にすごすごと帰ると、なんと家の前に高田の親方が立って待ち構えていた。近くの店で食事をしながら「こっちもいろいろ考えるから戻って来ないか」と諭される。親方自らの行動に打たれ、猛省して岐阜に戻り、みんなに謝り再スタート。腕を磨いて系列店舗も任されるようになり、十二年が過ぎた。満を持しての東京進出。センスの良さが評判を呼んで予約困難な人気店になった。夏場の鮎は岐阜県の郡上から入れる。魚のほとんどは、岐阜時代に親方が使っていた魚屋から仕入れている。献立は季節で変わるが、特に印象深いのは「ズワイガニのカニクリームコロッケ ホワイトソース」「鮑の石焼 肝ソースに雲丹ご飯」「蒸し鮑と雲丹の冷製稲庭うどん」「花山椒・月の輪熊鍋」「ソースで食べる鮎フライ」などなど。先付に添えられるジュレの塩梅、出汁に混ざりゆく季節ごとの真丈、締めのご飯のレパートリーは三十種類以上にのぼる。自身が親方に育ててもらったと言う意識があるので、後進の育成にも力を注ぐ。清々しさを感じる店だ。

2026年 追記

さらに磨きがかかり風格が出て来ました。未だに新たなチャレンジを続ける山本さん。好きやわぁ。

03第5回大阪を代表するしなやか中華そば カドヤ食堂
嘉門タツオの「愛めし」第5回 大阪を代表するしなやか中華そば カドヤ食堂(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

大阪西長堀。街から少し外れたところにカドヤ食堂はある。そのあまりに丁寧な仕事とご主人の探究心から生まれる中華そばは珠玉。大阪に帰ったら列に並んでいる。

店主の橘和良さんは兵庫県加古川市出身。子供の頃からラーメンが好きで、中学の時に伊丹十三監督の「タンポポ」を観て将来はラーメン屋になりたい!と思う。しかし高校卒業後、地元の化学メーカーに就職。10年ちょっと勤めたところで、故・佐野実さんの支那そば屋の味に出会い衝撃を受けて再びラーメン屋になりたい思いがムクムクと沸き起こった。その頃、大阪芸大の先生をしていた友人の教え子で現在の女将さんと飲み会で出会って結婚。その実家は大衆食堂をされていた。会社を辞め、店を手伝い始めて最初は週に1日だけ中華そばを出していたが、1年後に専門店として再スタート。当初はお客もまばらだった。ところが週刊誌に取り上げられ、その記事を見た佐野実さんが、なんと自分で調べて店にやって来たのだ。小麦粉を厳選し当時使っていたこだわりの豚の事も褒めてくれたが、まだ素材を使いこなせていないとアドバイスされ背筋を伸ばす。

研鑽を重ねて、カドヤ食堂オリジナル完成の域まで引き上げた。大阪市内に移転して、製麺室も完備。化学メーカー勤務の経験からなのか、すべて化学的にデータを取る。「毎日がプレミア限定ラーメンのような食材」と謳うメニューの解説は、芸大出身の女将さんの手書きイラスト入りだ。黒さつま鶏黒王、霧島高原ロイヤルポークの鹿児島黒豚、はるゆたか、ムロアジ、鮭節、和歌山野尻醤油に内モンゴル天然カンスイなどの名が連なる。今でも、良いものを見つけたら素材を変えたりもする。時々限定で供されるメニューもたまらない。「新麦焼き干し醤油そば」は、通常の煮干しの10倍のコストがかかる。青森陸奥湾平舘にあがる鰯を煮ずに焼く。それをまた丁寧に処理してだしを取る。羅臼昆布と焼き干しだけで実に風格あるスープになるのだ。新麦「春よ恋」のしなやかな麺とお互い引き立て合う逸品になった。佐野実さんの影響で、日本の小麦粉の品質が随分上がったという。薫陶を受けた橘さんは、今日も製麺室で愛を込めて素材と対峙している。

2026年 追記

未だに朝から並びます。日本一!夏の冷やし中華はじめ、新麦情報や期間限定にぼし中華そばなど、告知があると引き寄せられます。もちろん定番の魅力も高いところで安定。またすぐ行きます。

嘉門タツオが歌った!

04第6回ハギーの哲学 オリーヴァ
嘉門タツオの「愛めし」第6回 ハギーの哲学 オリーヴァ(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

学芸大学駅至近にある「地中海食堂オリーヴァ」。萩原シェフとは長い付き合いで、僕らは彼のことを「ハギー」と呼んでいる。2001年から9年間続いた伝説のリストランテ、赤羽橋の「カメレオン」で一世を風靡。毎月メニューを変え続けたが、レシピは存在せず、全てシェフの頭の中にあった。僕もその時代に彼と出会い、その独特な存在感と魔法のように供される13品のコースの虜になった。それだけに、絶好調のさなか突然のクローズはショックだった。理由を聞いたら「疲れちゃった」とのこと。いちいちアーティスティックなのだ。

19歳の時から、まだ珍しかった青山の高級イタリアンで修業。その後単身イタリアへ渡り、トップクラスの店からリゾート地のリストランテまで渡り歩き、各地で「面白い東洋人が来た」と珍しがられ重宝された。帰国後、青山「エルトゥーラ」で8年腕を振るう。この頃「料理の鉄人」などのテレビで名を売った。店のクローズに伴い立ち上げたのが「カメレオン」だった。電熱器を使うオープンキッチンで綺麗な料理を作るのがテーマだ。調理場もミリ単位で設計してあり、たちまち評判になった。発想が天才的なので、スタッフはなかなか付いて行けない。根底にはとんがって攻める!という哲学が常にあった。チリチリの天然パーマと鋭い眼光の容姿には近寄り難いオーラがあった。「カメレオン」の幕を降ろした後は、飲食のコーディネーターとして何店舗かを立ち上げて采配。そして3年前、学芸大学に「オリーヴァ」をオープンする。今回のテーマはカジュアル。イタリアから範囲を広げて「地中海食堂」とした。店名に由来するオリーブが生えている地域の料理を提供する。ギリシャ、トルコ、モロッコなどのテイストの品々はシンプルだけれど、明らかにハギー精神が反映している。カメレオン時代からのファンも遠くから足を運ぶ。

将来は地方の海が見渡せる崖の上で、オリーブ畑に囲まれたオーベルジュをやりたいと言う。

そんなハギーは最近初めての子供を授かった。可愛い女の子だ。ハギーの表情も柔和になった。この子のためにも、まだまだ腕を振るってもらわなければ。僕らはハギーの料理を食べるために今日も東急東横線に乗る。

2026年 追記

お嬢さんもスクスク育ってます。街の食堂として愛されてます。ずっとお付き合いお願いしまーす!

05第7回北陸の変態寿司王 めくみ
嘉門タツオの「愛めし」第7回 北陸の変態寿司王 めくみ(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

石川県は寿司処。あちこち行きましたが、7年前に「めくみ」さんに伺ってからは、毎回ここを目指します。

店主の山口尚亨さんは47歳。金沢の隣町、野々市に店を構えて16年。

高校卒業後に上京。この段階では将来寿司屋になるとは夢にも思っていなかった。それが現在のように「いい意味での変態」と賛辞を贈られる寿司屋として全国に名前を轟かせる事になるのだから人生は面白い。そのストーリーには「めくみ」の店名由来の女将さん、由恵さんの存在が欠かせない。

東京に出た山口さんは、まず介護の仕事に就いた。そこに新入社員として入って来たのが由恵さんだった。2人は22歳と20歳だった。出会った直後、山口さんはパン屋になろうと思い立ち介護の仕事を退職。ところが予想以上にキツくて、パン屋は無理!と即断念。その後バイトとしてたまたま寿司屋で働き出したら水が合った。数店渡り歩き修業した。地元で寿司屋をやるぞ!と30歳の時に由恵さんを伴って戻り、身の丈にあった物件を野々市の住宅地の一角に見つけて2002年に開店したが当初は山口さんの意識も変態度も今ほどではなかったし、お客も少なかった。

暫くして潜在的にあった探究心と行動力が急カーブで上昇し、開眼してゆく。魚を勉強すればするほど、やらねばならない事が増える。まさに目から鱗の連続だ。毎朝片道2時間かかる七尾への仕入れや、白身魚の神経抜きの作業もやって当然の事と悟る。由恵さんは仕込みも手伝う。白えびは1日300尾剥くし、1時間で8尾しか剥けない藻屑蟹も彼女の担当だ。横浜で生まれ育ち就職先でたまたま知り合った旦那さんの人生に付き合っていたら日本一白えびを剥くのが上手な女将になっていた。いつもハツラツとしていて笑顔が素敵な由恵さん。たまたまの連続で今日まで来たこのご夫婦の連携に魅力を感じる。

山口さんが話してくれる魚の話は理路整然としてわかりやすいし、時々発せられるささやかなギャグも僕はしっかり受け止めている。「このぼたん海老、だいたい15年くらい生きたところで捕まるんです。だからほぼ全員中卒です」。緩く和む。これからも益々変態ぶりに磨きをかけていただきたい。

2026年 追記

その後いろいろ果敢に展開されていますね。また行きたいわぁ。待っててね!

06第8回炎の麻婆豆腐
嘉門タツオの「愛めし」第8回 炎の麻婆豆腐(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

麻婆豆腐の歌があった方がいい!

常日頃から「歌があるべき事柄には歌を!」と発言し実行してきた。麻婆豆腐は僕も大好きだし、熱狂的ファンも多い。麻婆豆腐について語り合う「麻婆十字団」というコミュニティもあり、僕もその一員だ。アルバム「食のワンダーランド~食べることは生きること~其の壱」はすべて食べ物の歌で構成されているが、その中でも一際パワフルでライブで歌うと大いに盛り上がるのが「炎の麻婆豆腐」という歌だ。

麻婆豆腐の歌を創るにあたり、先ずこの方に意見をいただかなければと友人を介して料理の鉄人、陳建一さんと赤坂四川飯店で食事をさせてもらう機会を得た。陳さんのお父さん陳建民さんは日本に麻婆豆腐や回鍋肉を広め中華料理の父と呼ばれている。陳さんは大学卒業後、お父さんの元で修業。根底に脈々と流れる「料理は愛情」という精神やお客さんに笑顔で帰ってもらう事が一番という信条を学ぶ。お父さん亡き後店を引き継ぎ、93年に人気番組「料理の鉄人」に参画。番組終了までの6年間で68勝23敗3分け。腕も知名度も上がり支店も増えて、四川飯店グループは今年60周年を迎えた。

お会いした時に「炎の麻婆豆腐」のラフスケッチを個室で生演奏して聴いてもらった。笑みと頷きで聞いておられたが、感想を聞くとレシピの順序が違うとダメ出しをもらいその場で書き直したところ「厨房でみんなに聴かせてやってよ!」とのこと。終業間際のキッチンでホールスタッフも含め30人くらいが見守る中での初披露。みんなのスマホ動画に収まった。陳さんは「うちの親父が広めた麻婆豆腐の歌が出来た!」と大層喜んでくれて、今ではご自身の講演や料理教室のオープニングで必ず歌ってくれている。ひょっとしたら僕よりも歌う回数が多いかもしれない。合わせてカラオケにも収録されたので、各地の四川飯店のスタッフに会うと「いつも歌っています」と言われるようになった。

人を幸せにするには先ず自分が楽しくなくっちゃといつもおっしゃる陳さん。愛嬌ある笑顔が素敵だ。時々食事をご一緒させてもらい、中華の深さを教えてもらっている。歌を作って本当に良かったと思う。

2026年 追記

陳さんが亡くなってしばらく経ちました。健太郎さんが逞しく引き継いでおられます。あちこち食べに行きましたねー。陳さんとの食の日々は宝物です。

嘉門タツオが歌った!

07第9回宮城に中華あり 楽・食・健・美-KUROMORI-
嘉門タツオの「愛めし」第9回 宮城に中華あり 楽・食・健・美-KUROMORI-(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

旧知の「浅草龍圓」栖原シェフが、フェイスブックの投稿にまるで宝石を見つけたかのように黒森さんとの出会いを綴っていた。意気投合した2人は東京と仙台を行き来しては意見を述べ合い、コラボイベントも開催。僕の大好きな栖原シェフがここまで惚れるならばと思って初訪問したのだった。

黒森さんは被災地のみなさんに温かいものを食べてもらいたいと東日本大震災直後に仙台に移住。楽・食・健・美 KUROMORI-の看板を掲げてわずか四年で地産地消の実践と功績が認められ、農林水産省の「料理マスターズ」に選ばれた。

縁もゆかりもない土地だが、先ずは住んでみよう。高田馬場で餃子屋を采配していたノウハウを持ち込み、一人前380円で提供したところ毎日1200個売れたが働き過ぎがたたり、体調を崩して店を離脱。回復した頃に、たまたま空いた市内の居抜き物件に入って「KUROMORI」がスタートする。最初はリーズナブルなアラカルトの町の中華屋だった。常連さんから「地元のより良い食材を使って黒森の世界を確立すべきだ」というアドバイスを受け、宮城県下の生産者を訪ね歩き始める。高級中華に欠かせないフカヒレ、干し鮑に干しなまこは全て宮城県で豊富に獲れる。ところが一旦中国に渡って日本に入るという流通ルートが確立していた。何度も訪ねては熱い思いを語って説得した。徐々に雪解けがはじまり、今ではKUROMORI仕様のフカヒレを直に卸してもらえるようになった。肉も野菜も、全てそんな手順で信用を積み上げて来た。2016年には、広瀬川が眼下に望める高台に移転。コース一本に絞ったところ、その時々の最高の食材を使った料理が評判を呼び、宮城以外から食べに来るお客さんが増えた。伺う度に進化向上されていて目を見張る。

東京時代は1つの店に2年続けて居ることなく水面を跳ねて行く飛び石のような料理人だったが、仙台に来て視野が開けた。自分がやるべき事が明確になって力強さが増した。

メニューには宮城県の地図と食材の産地が記されていて、ああここで作っているのかと一目瞭然なのもとても良いアイデアだ。

中華は宮城が面白い!と全国に轟くのは時間の問題だ。

2026年 追記

クロモリさんは気仙沼に移られ、さらに磨きをかけられてます。わざわざ行ってください。また伺いまーす。

08第10回日本一のいちびり男 おさむちゃん
嘉門タツオの「愛めし」第10回 日本一のいちびり男 おさむちゃん(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

「いちびり」という関西弁がある。ふざけたりはしゃいだりする可愛げのある人のことをいう。

大阪堺の鳳に日本一いちびっている焼肉屋がある。道路と道路の狭間に建つ、一見バラックの様なわずか3.3坪の佇まい。客は8席のカウンターで肩を寄せ合う。店主のおさむちゃんがダジャレやギャグを交え、時には照明を点けたり消したりしながら接客する。最高級の肉の塊が目の前で披露され、手際良く捌かれ焼かれて供される。これほど楽しく美味しいひと時はないだろう。狭いので、滑り気味のギャグもしっかり受け止めなくてはならない。なんせおさむちゃんは始終いちびっていて、一度伺うとみんなファンになる。

どうしたらこんなにいちびった58歳が出来上ったのか?いろいろ聞いてみた。

高校1年の時にチェーン展開する焼肉店に勤める先輩から「毎日焼肉食べ放題やで!」と誘われ、高校を中退して就職。ところが甘い言葉とは裏腹に、連日18時間労働の過酷な日々。現在の様なパワハラという倫理感もなくバブル突入直前の8年間を過ごした。次に歩を進めたのは東住吉の焼肉屋。ここのチーフに飲食の基礎を叩き込まれた。チェーンにはない複雑で魅力的なタレに心酔。教えてもらえませんかと頼んでも相手にしてくれないので、コッソリ醤油や酒の瓶に印をつけて消費量を計り身に付けた。6年働いたが嫌気がさして退職。バイト生活が始まる。その頃が人生の底だったのか、長年連れ添った妻との間にもすきま風が吹き始め、38歳で独り身になりパチンコとパチスロの自堕落な日々を過ごす。借金もかさみ「こんな事してる場合か?」と思っていた頃に現在の奥さんのメグちゃんと出会った。やはり肉で勝負したい!と一念発起し、48歳で「おさむちゃん」を開店。当初は寡黙な焼肉屋でお客も来なかった。メグちゃんがある日「あんた、本来オモロイ人間やのに何真面目な顔して商売してんの! あんたの好きなように楽しくやりーや!」と言われて開眼。徐々に今のスタイルに進化して行く。最適の仕入れ先とも出会い、肉もギャグのレベルも急上昇してお客が溢れ出した。さあ、今夜もおさむちゃん劇場の開幕。いちびって行きましょう!

2026年 追記

ずっと伺ってます。新規の予約は残念ながら取れません。おさむちゃんとはほぼ同年代。お互い健康第一で現役を続けましょう!

嘉門タツオが歌った!

09第11回雄大な大阪割烹の生き残り 梅市
嘉門タツオの「愛めし」第11回 雄大な大阪割烹の生き残り 梅市(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

西天満のバー「蓮」のマスター、食通の中川さんから、ダシは「梅市」に限ると聞いて通い出した。ミナミで暖簾を上げて間もなく40年。ご主人の奥田高光さんは、強面で若い衆に「お前ちゃんとやったんかえ?」「偉なったんやな」などとブチブチ言いながらカウンターに立つ。「こないだもね、若い子が鯛のあら炊き教えてください言うて来たから作らせたらなかなか旨いんですわ。せやけど100回全部おんなじ味に仕上げんとあかんねんでと教えたんやけど、お礼が缶コーヒー2本ですわ」。棘が潜む言葉の端々に優しさが滲み出る。高校生の時、森繁久弥さんと八千草薫さんが夫婦で寿司屋をやっているドラマを観て、寿司をタダで食えるのはええなぁと思って料理の道へ。お姉さんが料亭大和屋の芸者さんをやっていたご縁で、料理長の今和泉明氏を紹介され師事した。実地をみっちり仕込まれ、その他の知識は京都懐石「辻留」の辻嘉一氏の本から学んだ。辻氏の著書は奥深いものの、全てを読むには経済的にも大変だったが、誕生日に奥様が全集をプレゼントしてくれた。大層ありがたかったと振り返る。本の恩恵を実感しているので、自身も「日本料理野菜調理ハンドブック:基本の下処理・切り方・味つけ」を上梓された。料理人ではない僕が読んでも感心納得の一冊だ。

師匠の今和泉さんのことは僕も知っていた。大和屋から独立して吹田市千里丘に料亭今和泉を出された頃、僕が弟子入りした鶴光師匠と懇意でテレビでも共演されていた。師匠は千里丘に住んでいたので、何度かお供でお店に連れて行ってもらった。初めて梅市に伺った頃はそんな話をすると親方を知っていることを喜んでいろんな思い出話をしてくれた。今和泉の親方は若くして亡くなり、奥田さんが一番包丁を譲り受けた。板前にとって何よりの栄誉な事だそうで、ここ一番の時にしか使わないと立派な袋から出して、磨かれた刃がキラリと光るのを見せてもらったりもした。

大将のだしは実に上品でさりげない。究極の引き算の美学だと思う。長年の経験で培われた神業だ。かつて活気が溢れていた雄大な大阪割烹の流れを次世代に伝える重要な人物なのだ。

2026年 追記

梅市さんのおせちの素晴らしさを後世に残さなければ!と思い、YouTubeにアップさせていただきました。

10第12回マッシュルームラブ マッシュルームトーキョー
嘉門タツオの「愛めし」第12回 マッシュルームラブ マッシュルームトーキョー(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

高橋和久(ワキュウ)さんと初めて会ったのは5年前。高円寺の寿司屋で食事をする中に彼は居た。中盤で持参のマッシュルームを取り出し、ご主人に「これ握ってもらえませんか?」と依頼した。当時マッシュルーム初心者だった僕は、生で食べられるのかと驚いた。

そこから仲良くなって、僕もマッシュルームに魅せられてゆく。知識もなかったし、ナポリタンスパゲッティやミックスベジタブルに紛れた缶詰のイメージしかなかった。

元々は外食チェーンの輸入担当だったワキュウさん。マッシュルーム一筋30年余り。世界を飛び回り、マッシュルームの向上に人生を賭けて来た。その情熱ほとばしる話に耳を傾けるうちに、これは歌わなければと思った。ネーミングも見た目もカワイイマッシュルームは歌になる! 情報も盛り込んで「マッシュルームラブ」が出来た。♪マッシュルームカワイイキノコ マッシュルーム みんなのアイドル というフレーズで始まる楽しい曲だ。栽培に欠かせないのは馬の敷き藁で、その上に腐植土を被せて、温度、湿度や風などを計算して作る事や、種はフランス生まれであることなども盛り込んだ。

専門レストラン「マッシュルームトーキョー」が原宿にオープンしてもうすぐ5年。若い女性中心の人気店だ。どれもこれもおいしいが、フレッシュマッシュを大量に削るヒラヒラサラダ、マッシュルームを練りこんだパスタや、ジェラートなどが人気だ。

直径20センチのギガマッシュはステーキにしてもシャブシャブにしてもおいしい。壷焼きにすると、中からスープが滲み出てくる。これをすするのがまたたまらない。冷凍して保存しておくとバターのような風味が生まれる。

肉にも合うしオリーブオイル、ニンニクとの相性もいい。

日本人は年間3.5キロのキノコを食べるのだが、まだマッシュルームはひとり70グラムしか食べられていないそうだ。しかし、その魅力は確実に広がっていて、2000年には2500トンだった生産量が2018年には8500トンと飛躍的に伸びている。まだまだ伸びるぞマッシュルーム! 気づいたら、僕も応援団になっていた。

2026年 追記

「マッシュルームラブ」はアルバム「食のワンダーランド~食べることは生きること~其の壱」に収録。ワキュウさんは沖縄にも進出!輪は広がり続けています。

嘉門タツオが歌った!

11第14回鰻業界の父 北九州小倉 田舎庵
嘉門タツオの「愛めし」第14回 鰻業界の父 北九州小倉 田舎庵(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

「江戸前」という言葉は、寿司からではなく鰻から生まれたと知ったのが20年程前。街の生活排水が海に流れ、それらの栄養をふんだんに享受して美味しい鰻がたくさん獲れたそうだ。そんな「江戸」に長年住んでいるのに鰻の事を漠然としか理解していない自分にある日気付いて愕然とし、そこからペースアップして全国の鰻を吟味しながら東へ西へと食べて回った。中でも、野性味と繊細さを合わせ持ち俄然印象に残ったのが北九州小倉にある田舎庵だった。そんな話を新聞のインタビューで話したら、記事を読んだ店主の緒方さんから事務所に連絡があり、ゆっくりお話がしたいので北九州に来られる際はお訪ね下さいとの事。早速伺ってから濃いお付き合いが始まった。

緒方さんは八幡区にある料亭の3代目で、鉄の景気が良かった頃、店は大層栄えた。懐石以外に鰻も出していたが、斜陽に伴い小倉に移り鰻一本で勝負しようと決めて30年。通常より多い金串を刺し、蒸さない地焼きにするのが特徴だ。焼けた脂が炭に落ち、煙となって香ばしさが身に纏わり付く。見た目の照りとカリッとした歯ごたえに加え、奥から滲み出る脂がたまらない。

緒方さんに一番最初に教わったのは、天然が良くて養殖が悪い訳ではないという事だった。高度成長期に養殖技術が進み、短期間で太らせる業者が多数を占めているのは残念だ。一方、地鶏の様にストレスなく時間をかけて自由に泳がせる生産者もあり、そのように養殖された鰻は俄然美味しい。有明海の天然物ですら、はしりの頃はまだ脂が乗っていない事も確認させてもらい、その後の盛りの素晴らしい味も頂いた。

緒方さんは稚魚の乱獲にも頭を抱え、生産者の意識を高めて量産多売ではなく本当に品質の良い鰻が市場に出るにはどうすれば良いかを日々考えて実践されている。まだまだ解明されていない事も多く、マリアナ海溝あたりで稚魚が生まれ海流に乗って台湾経由で日本にたどり着いた所で、それまで葉っぱ状だったのがニョロリと変態して川を登るミステリアスなヤツなのだ。100歳以上の日本人が1番好きな食べ物が鰻だと言う。栄養満点の鰻を食べて、人生100年時代を乗り切りたいものだ。

2026年 追記

緒方さんはイタリアにも出向き、いろいろ果敢にコラボされています。

静岡「瞬」、大津「う嵐」、参宮橋「あさや」全国で鰻レベルうなぎのぼり!

12第17回縁が繋がり花開く 日本橋蛎殻町すぎた
嘉門タツオの「愛めし」第17回 縁が繋がり花開く 日本橋蛎殻町すぎた(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

日本橋蛎殻町すぎたのご主人、杉田孝明さんの歩んで来られた道のりに運命を感じる。千葉県で生まれ育ち、中学2年の時に小林薫さんが寿司職人を演じる「イキのいい奴」と言うドラマを観て、寿司屋ってカッコいいなと漠然と思った。高校の時にたまたま友達の代わりに寿司屋でバイトをする事になり、やはり寿司屋になろうと決断する。求人広告が出ていたお店にいくつかあたりをつけて、1番最初に面接に行ったのが日本橋蛎殻町の都寿司だった。ご主人に会って話すうちにこの人に付いて行こうと決意し、他の面接には行かず、高校卒業と同時に修業が始まった。ご主人からは、寿司だけでなく人としての生き方の根本から教わった。早朝から働き、仕事終わりに近所の洋食屋テキサスに行くのが楽しみだった。深夜なのにステーキやハンバーグを頬張る客で賑わっていた。握りも任されテキサスの常連にもなって10年ほど経った頃、マダムから娘と付き合ってもらえないかと頼まれた。それが現在のすぎたの女将さんである。所帯を持ち更に数年経った頃、師匠から東日本橋で暖簾分けした弟子がやっていた店が空くからそこをやってみないかと誘われる。2004年春、東日本橋都寿司の後を継ぐ形で少し古い居抜き物件でのスタートだった。最初は閑散としていたが、試行錯誤や創意工夫を続ける中で〆さば、大葉とガリを巻き簾で巻いたものや牡蠣を味噌漬けにするなどの定番も生まれた。酢飯の温度も安定し日本酒のラインナップも充実し出した頃から徐々に軌道に乗り始めた。10年を迎える頃、建物もガタついて来たのでそろそろ改装しようと思っていた矢先に女将さんのお父さんが突然倒れてテキサスの存続が不可能となった。家族で相談し、ここを寿司屋に出来ないかという案が出た。しかし町内には修業先の都寿司本店がある。ありのままをご主人に伝えると、それはお父さんの後に入るのが筋です、遠慮なくやりなさいと言われて洋食屋が寿司屋になった。蛎殻町すぎたの暖簾を掲げて丸3年。和風の凛とした佇まいだが地下に降りる階段も手すりもビルの看板もテキサスの時のままだ。

そんな物語を背負って、杉田さんは今日もにこやかにカウンターに立つ。

2026年 追記

日本一です。姿がカッコいいです。

世間には未発表ですが、すぎたさんの思いを勝手に歌にしました。

♪ すぎたさんの歌

鮨屋になりたかったんです
ドラマで見た鮨職人さんに
憧れて高校出てから今日まで
鮨屋として生きて来ました

こはだには手間をかけます
仕込みの仕事の全てが集約されていて
その店の個性が一番出るネタだと
思っているからです

まずはこはだが隠れるくらい
塩を振って水分を抜いて
塩が溶けたら今度はお酢で洗って
更にお酢に漬け込み塩を抜いてゆく

しばらく寝かせてしょっぱくもなく
酸っぱくもなく仕上げます
季節や産地や個体によって
仕込みも包丁も臨機応変に

お客様を笑顔に出来たなら
自分達も幸せになれます
鮨屋になって本当によかった
今日も心を込めていらっしゃいまし!

つまみをひと通りお出ししたら
いよいよ握りが始まります
最初にこはだそして白身から
イカ鮪の赤身中トロへ

ヅケ大トロ鯵海老雲丹穴子
ネタに合わせてお酒もどうぞ
巻物や追加もご遠慮なく
最後はタマゴで一丁あがり

ずっと鮨屋で居たいんです
一生鮨屋で居たいんです
歳をとったら速い球は
投げられなくなるかもしれないけど

経験を重ねたからこそ
握れる鮨を目指しています
生まれ変わっても鮨屋になります
昨日より今日 今日よりも明日

お客様を笑顔に出来たなら
自分達も幸せになれます
鮨屋になって本当によかった
心を込めていらっしゃいまし!

今日もお迎え致します
心を込めていらっしゃいまし!

13第18回ど・とんこつ ずんだれ 魁龍ラーメン
嘉門タツオの「愛めし」第18回 ど・とんこつ ずんだれ 魁龍ラーメン(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

新横浜ラーメン博物館から、多くの地方の名店が全国レベルになった。ラーメン博物館に出店する事は、スポーツ選手がオリンピックに出場するくらい意義のある事だと思う。魁龍ラーメンも、そんなチャンスを手に入れた店のひとつだ。店主の森山さんとは、2002年に現福岡市長高島宗一郎氏の結婚式で初めて会った。声の大きい人間力の強い人だと思った。その人生は波瀾万丈で、34歳で魁龍ラーメンをオープンするまで実に様々な経験をされている。20歳の時に芸能界に憧れて全盛期の世良公則&ツイストの付き人になって全国を回ったが、余りにハードな世界を間近に見て自分には到底無理と断念し、1年で小倉に戻って水商売で働いた。そして20代半ばで立ち上げたショーパブが成功する。森山さん自身も扮装してステージに立ったが、その時に僕のデビュー曲「ヤンキーの兄ちゃんのうた」に合わせて振り付けをして大いにウケたらしい。その後クラブやカラオケバーなど15店舗まで拡大するが、これが本当に自分がやりたかった事なのかと疑問を持ち始めた。元々お父さんが経営されていた久留米ラーメンの店をどうしてもやりたい。豚の頭を長時間煮込んだ濃いスープが特徴だ。スープの出来に納得いかない時は店を開けない日もあった。そんな息子の姿を見かねて、すでに現役を引退していたお父さんが助言をくれた。アクも味のうち。雑味を全て除こうとしていた森山さんにとっては目から鱗だった。多少のアクも必要があると気付かせてくれてそこから霧が晴れた。息子に伝え切ったお父さんは3か月後にこの世を去る。小倉店は軌道に乗り、博多にも進出。ラーメン博物館出店も決まって勢いは増して行く。「ど・とんこつ」と言う呼び名も定着した。麺はバリカタではなく柔らかく煮た「ずんだれ」がお勧めだ。インパクトのある男子向き魁龍ラーメンが生まれて26年。現在は博多本店に絞って、朝から晩まで自ら厨房に立っている。他人には任せられないと拘る。不思議な事に、毎年お盆にはトンボが厨房に飛んで来るという。親父が様子を見に来ちょるんですと森山さんは言う。今年は僕も森山さんも還暦だ。お互いまだまだ頑張って行きましょう。

2026年 追記

福岡に行けば顔を出します。テレビで取り上げられて大忙し。森山さんの声が店内に響きます。お互い元気で頑張りましょう!

14第19回わざわざ行こう! エスコヤマ
嘉門タツオの「愛めし」第19回 わざわざ行こう! エスコヤマ(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

兵庫県三田にオープンして15年。わざわざ目指さないとエスコヤマに到達する事は出来ない。ここでしか買えない小山ロールを求める人々の行列が連日絶えないが、他のロールケーキとは一線を画する素材や工程を知れば納得してもらえるだろう。8年前からは世界最大のチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラパリ」に出品し、8年連続最高位を獲得して世界のショコラマニアをも虜にしている。

2013年夏に僕のデビュー30周年記念コンサートを大阪万博お祭り広場で開催した時には、関西を代表する様々な飲食店の皆さんに出店してもらった。小山さんにもマンゴーかき氷のブースを出してもらって大好評を博した。元々小山さんが大ファンだった伝説のロックバンドのアクションが僕と同じ事務所に所属しているご縁で繋いでもらったのだ。小山さんは歌も歌えば物語も書く。その話が絵本になったり更に音楽に展開したりする。パティシエの範疇では括りきれないクリエイターなのだ。そうして受けた刺激をお菓子やショコラなどの作品に反映させる。初期のショコラは大徳寺納豆や蕗の薹などの和のテイストを表現してパリの人々を驚かせた。近年は更に視野が広がり、世界中の味覚や香りを追求。台湾の野菊の香りやフランスのカシスの新芽とロマネ・コンティを合わせたりして複雑で奥深い香り等を演出されている。ベースとなるカカオに関しても、南米に直接出向き現地のカカオハンターとコミュニケーションして仕入れる様になった。心配性だから、とことん深く探求して身に付けなければ次に進めないと言う。カカオを深く知ると、その知識や思いがその他の作品にも影響を与える。どんなに面倒でも妥協はしない。もちろんパッケージのデザインやショップの設計も納得行くまで突き詰める。自分が子供の頃に体験したことが今の人生に大きな影響を与えているという実感から、三田の敷地には小学6年生までしか入場出来ない「未来製作所」というエリアも作り、そこでは子供達が目を輝かせて遊んでいる。さりげなく見える仕事の中に潜むオリジナリティは、ひとつひとつ妥協することなく丁寧に構築されていて、きっと誰にも真似出来ないだろう。

15第20回肉の天竺 スタミナ苑
嘉門タツオの「愛めし」第20回 肉の天竺 スタミナ苑(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

JR赤羽駅からタクシーに乗って1500円強。足立区鹿浜橋に肉の天竺、スタミナ苑はある。平日でさえ17時の開店時には長い行列が出来て1回転目に入れない事もあるし、お店へのリスペクトを表す意味も込めて15時30分頃から並ぶ。席の予約は出来ないが、いつ行くと伝えておくと特別な肉の数々は取っておいてくれる。この10年くらいで店を取り仕切る豊島兄弟の弟のマコさんとの距離が縮まったと勝手に思っているが、スペシャルコースを注文出来るまでには数年かかった。

元々は、ご両親がこの地で肉屋を営んでおられた。途中からお母さんが焼肉屋を始めて、その後をお兄さんと2人で継いだ。お兄さんが社長で、精肉、サラダやスープ等を担当。マコさんはホルモン担当で細かい包丁仕事が見事だ。

コースのトップバッターのカクテキは、干し柿の甘みがポイントのトロトロしたタレを纏って登場。キムチの後は、元々まかないだった塩ホルモンと味噌ホルモンの煮込み。それに並行して、レタスと海苔が胡麻と胡麻油によって見事に絡み合う山盛りのサラダも食す。新鮮なコブクロはニンニクで。ミノの昆布締めには胡麻油と塩昆布が寄り添う。ハツの炙りはカラシでいただき、センマイとアキレス腱には酢味噌が合う。テールをボイルして焼き上げた塊をナイフとフォークで解体するのも楽しい。既に1時間半経過しているが未だ肉を焼いておらず、ここでようやくコンロに火が入るのだ。

最初に入場して来たのは大皿にクリムトの絵画の背景の様に綺麗に並べられた塩ホルモンオールスターズだ。厨房のマコさんがドヤ顔で重たい皿を差し出す。気管、リードボー、ガツやハツモトなどが美しく市松模様のごとく盛り付けられている。細かく隠し包丁の入ったホルモンを軽く炙って頬張ると、コリコリして塩味が程良い海鮮の様だ。肉厚のタンとハラミは塩で。レバーは焼くと深みが増す。美しい赤身はタレで。テグタンスープ、チャーハンや黒豆入り杏仁豆腐も本格派。凍頂烏龍茶は店で煮出している。店は昭和の佇まいにしているが、トイレはピカピカだ。マコさん自らが掃除をする。美味しくて楽しくて、あっと言う間に夜は更ける。

2026年 追記

お兄さんは鬼籍に入られました。お疲れ様でした。マコさんは命を削って肉に向かっておられます。同い年です。お元気で!

スタミナ苑で10年修業された大分県佐伯市の「井とう」さん、スピリッツ引き継がれてます。

16第21回関西 食の応援団長 鮨処多田
嘉門タツオの「愛めし」第21回 関西 食の応援団長 鮨処多田(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

多田さんと初めて出会ったのは2012年12月、銀座にあった伝説の寿司屋「あら輝」のお昼のカウンターだった。通称、関西寿司屋三兄弟の弟分、広川さん、美菜月さんと連れ立って食の勉強ツアーに来られていて、前の夜は西麻布のワインバー「椿」に行かれていた。偶然我々のメンバーに椿さんが居て「昨夜はどうも」という事になり、大阪に帰った時は伺いますと名刺をもらってすぐに訪ねたのだった。翌年7月に僕のデビュー30周年のイベントを大阪万博お祭り広場で開催するに当たり、出展をお願いすると快く引き受けて下さった。ところが、話を詰めて行くと保健所からご飯を提供する許可が下りない事が分かった。すると経験豊富な多田さんは「寿司屋のラーメンを出しましょう!」と提案してくれた。鯛と鱧の骨でだしを取り、穴子をチャーシューに見立ててその場で焼いて提供して大評判だった。寿司屋三兄弟総出、更にラーメン業界からカドヤ食堂、ラーメン人生JETに加えラーメンクリフ(現・TSURUMEN、店主の大西さんはボストンで評判になっている)がサポートしてくれて500食は飛ぶように売れた。

多田さんの人望は厚く、年に一度の三田への松茸すき焼きとシャンパーニュツアーにはバスが連なり多くの飲食関係者と常連客が参加する。シャンパーニュの中でもクリュッグをこよなく愛する多田さんは、修業時代の年末にクリュッグを購入し、一年のねぎらいとして飲んでいた。そんな話を当主のオリヴィエさんにしたら2014年クリュッグのメゾンからクリュッグアンバサダーの称号を与えられた。オリヴィエさんは三田松茸の会にも出席した事もあり、親交を深めている。更に鮨処多田の15周年パーティーは、多田さんの意向でいろんなお店の合同周年パーティーにしたいと166店舗のお祝いとなり、僕は「ウマい!楽しい!大好き!」という歌を作って披露した。

淡雪塩をイカの上から降らせてアナ雪に見立てる演出や、玉子にクリュッグの焼印が押してあったり、更にシャンパーニュに合うちらし寿司を作ったりとアイデアと遊び心に満ちた演出はみんなを幸せにしてくれる。楽しい事が好きで、いつも笑顔の多田さん。暖簾をくぐれば「毎度おおきにー」と今夜も朗らかに迎えてくれる。

2026年 追記

先日25周年を迎えられました。お祝いに呼んでいただき、歌わせていただきました。

17第22回八尾のとんかつ聖地 マンジェ
嘉門タツオの「愛めし」第22回 八尾のとんかつ聖地 マンジェ(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

食べログとんかつ部門全国第2位の店が大阪の八尾にあると言う。梅田でも難波でもなくわざわざ行く八尾。きっと凄い店に違いない。しかし予約を取るのが至難の業で、午前11時の開店前、朝8時半に名前を書くシステムだ。土日に至っては早朝6時くらいから並ぶ人もいるらしい。あるグルメ有名人は、八尾にホテルを取って名前を書いたのちホテルに戻って休憩してランチに出かけたと聞いた。人気店に上り詰めた秘密が知りたい。有難い事に八尾在住の知人が名前を書いてくれて伺う事ができた。カウンター13席の細長い店内に油の香りが漂う。一般のロースやヘレの他に東京エックス、鹿児島黒豚、日向あじ豚やイベリコ豚の厳選銘柄豚が4種。こだわりの生パン粉は糖度が高く、粗めに挽き、優しく纏わらせて植物油とラードを合わせた油で揚げる。カットされるとピンク色の断面から湯気が立ち上る。塩で食すと肉そのものの味が際立つし、自家製のソースも旨い。一朝一夕では決して到達出来ない総合力だ。シェフの坂本さんと食事をする機会に恵まれ、これまでの道のりを伺った。山口県岩国出身で、中学の時に雑誌で見た長い帽子を被ったコックさんの写真を見てカッコいいと思い料理の道に進む決心をした。大阪の専門学校を経てホテルのレストランに12年勤めて基礎を身に付ける。その後仕出し屋と魚屋をやっていた奥さんの実家を3年手伝い仕入れを勉強した。40歳になり自分の城を持ちたい、どの方向に進もうと考えていた時、ホテル時代の先輩がとんかつ屋を始めて流行っていると聞いて食べに行った。よし!これで行こう。とんかつ屋のほとんどは定食を提供する食堂だ。自分はレストランで修業したので、洋風のとんかつ屋にしようと決めた。商売を始めるにあたり地元東大阪の石切神社の参道で占い師3人に見てもらったら、全員が「東へ行きなさい」と言ったので八尾に来る事にした。それから22年。最高のとんかつを提供したいという志を持ち生産者にも会いに行くし、もっと出来る事はないかといつも模索している。まだまだ進化出来るとおっしゃる。コック帽を被ってとんかつを揚げるシェフの背中と、自信に満ちた素敵な笑顔に会いに行こう。

2026年 追記

いやー、いつ伺っても素晴らしいです。トンカツレベル上昇の関西。トップランナーとしてまだまだお元気で!

18第23回デビュー35周年&還暦バースデー
嘉門タツオの「愛めし」第23回 デビュー35周年&還暦バースデー(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

3月25日に目黒雅叙園で「デビュー35周年&還暦バースデーを祝う会」を開いてもらいました。さながら音楽と笑いと食の祭典の様子をご報告します。

開会宣言の後、デビューから現在までをまとめたVTRが流れ、満寿泉で鏡開き。乾杯はアミューズの大里会長の音頭に乗せて、シャンパーニュ ガティノワで。最初のお料理は浅草龍圓の栖原シェフによるホタルイカ ペースト入り焼売と、仙台KUROMORIさんの宮城県産の食材で作った春巻き。続いて銀座寿司幸本店の杉山さんが登場し握りに合わせて僕が「なごり寿司」を歌い、お酒は満寿泉、天狗舞と獺祭が。CBCゴゴスマの石井アナウンサーと時事ネタ掛け合いで盛り上げていると、続いて鳥しきと串の坊のコラボで鶏のいろんな部位を揚げたスペシャルメニュー。白ワインはラフィネ、横浜君嶋屋と千商さんのご提供。ステージにはデュオ吉田山田が登場し、「日々」を歌った後に、山田君が小学3年生の時200回以上聴いたという僕の歌「月見うどん」と「NIPPONのサザエさん」を3人で。雅叙園近藤シェフのスペシャリテのフカヒレ姿煮銀器盛りに続いては岐阜の熟成肉ファンボギさんが提供してくれた豚バラで作った団子スープがけ。ステージには押尾コータローさんが登壇。「戦場のメリークリスマス」などの超絶技巧の後に押尾さんの代表作「翼」に僕が歌詞を付けた「太陽の塔のテーマ」を2人で。お料理は肉の沖村の飛騨牛ローストビーフ。それに合わせてイガイタカハさんから提供していただいた赤ワインが注がれます。シメは麻婆豆腐。陳建一さんがフライパンを振る横で、僕が「炎の麻婆豆腐」を歌って会場のみんながナプキンをクルクル。「HEY!浄土」で大団円。デザートは兵庫県三田でしか買えない小山ロールとショコラ。当日冷蔵車で運んでもらいました。お土産は岡山県総社市のトングウパン、鳴門和三盆と僕の本「熱中ラジオ」を岡山デニムのトートバッグに入れて。歌って食べて説明して写真撮ってバタバタでしたが楽しんでもらえたようで本当に良かったです。これからも美味しい食事を糧に、時代の中でリアルな歌を歌っていきたいと思います。本当にありがとうございました。

2026年 追記

ありがたかったです。鏡開きをして下さった服部先生も鬼籍に入られました。

こういう記録を残せて本当に良かったです。グランデュークス引地さん、ありがとう!

19第24回寿司幸本店四代目 なごり寿司コラボ
嘉門タツオの「愛めし」第24回 寿司幸本店四代目 なごり寿司コラボ(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

銀座寿司幸本店四代目、杉山衛さんと知り合ったのは、てっちり六本木浜藤の乾さん主催の新年会だった。その後様々な場でご一緒させてもらって15年になる。話題が豊富で、質問するといつも丁寧に教えて下さる。しなやかでフットワークも軽い。滋賀県にスッポンを食べに行った時は、その後京都に流れて歌舞伎役者さん等が常連の祇園のお座敷バー波木井に連れて行ってもらった。お師匠さんが三味線を弾きながら歌う艶っぽい都々逸に腹を抱えて笑った。去年NHKテレビ「ごごナマ」の「どーする、スターシェフ」のコーナーに出演された時は、ちらし寿司を作るBGMに僕のレパートリー「なごり雪」の替え唄「なごり寿司」を流してくれた。銀座のお姉さんに同伴やアフターで寿司をさんざん奢った挙句に土産を2人前持って帰られるという内容の歌で、近頃巷のカラオケで結構歌われているらしい。銀座に店を構えている杉山さんは、そんなシーンをきっと何度も目撃されて来たのだろう。先日の僕の還暦パーティーでは、杉山さんが握る横で僕が「なごり寿司」を生で歌うコラボも実現した。遊び心溢れる粋な杉山さん。寿司幸本店グループは40人もの職人さんを抱えている。若い衆に対して、いつも遊んどきなさいよとおっしゃるそうだ。寿司を握るだけなら4年もあれば覚えられるが、お前店やってみないかとお客様からスカウトされるような板前さんになりなさい。その為には絵画、映画や旅行等いろんなジャンルに見聞を広げて引き出しをたくさん作っておきなさい。感性を磨いて魅力ある人間になりなさい。お客様の好きなものより嫌いなものを覚えなさい。カウンターは対面商売だからお客様に嫌な思いをさせないのは当然の事。力まないけれど気合いを入れて心底和んでもらう、そんな板前になりなさい。おっしゃる通りだ。寿司を取り巻く状況も年々変化していて、接待は減り、外国からのお客様が増えた。杉山さんは英語も交えて外国の人にもわかりやすく説明するし、ジョークで笑わせたりもする。明治18年から続く歴史を背負って今日もカウンターに立つ。寿司を握る涼しげな笑顔と立ち振る舞いはスマートで知性が溢れている。

20第25回綱を束ねる 天ぷら つな八
嘉門タツオの「愛めし」第25回 綱を束ねる 天ぷら つな八(掲載紙面)
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新宿東口に本店がある天ぷらつな八は、全国に40店舗を構えている。3代目社長の志村さんとは、食の会を通じて15年程のお付き合いになる。年に4回つな八の別館のつのはず庵で友人主催の四季折々の天ぷらとワインを合わせる会が開催されており、スケジュールが合えば楽しみに伺っている。揚げたての旬の食材を箸で切ると、衣を纏った素材から香ばしい湯気がフワッと香る。ワインの酸と天ぷらの油がとても良く合うのだ。元々は魚屋さんの次男だったおじいさんが、おでん屋、割烹やキャバレーなどいろいろやってみた末に大正13年に創業。実家が魚屋である事を生かして活けの車海老や穴子をその場で捌いて即座に揚げる手法が評判になった。実は当初の屋号は網八(あみはち)だったという。おじいさんが達筆で、看板に網八と書いたのを見たお客様が読み間違えてつなはちと呼ぶようになった。ならば綱のようにみんなを束ねていこうという事で綱八になったそうだ。現在数百人の職人と社員を束ねる志村さんは、まずは接客から覚えてもらうと言う。気配りに礼儀作法、提供する間をホールで身に付けたのち厨房に入る。捌きを覚えてから揚げるまでに3年半はかかると言う。油は胡麻油100パーセントで愛知県蒲郡市にある竹本油脂製の物を使っている。約2年前あるパーティーで志村さんに竹本油脂の専務さんを紹介してもらい、蒲郡に行った際に工場を見学させてもらった。昔は国産の胡麻を使っていたが、今は巨大なコンテナでアフリカから運ばれて来る。港で不純物を取り除き工場のラインにはめ込まれ、太白油はそのまま絞り、黄金色の胡麻油は焙煎してから絞る。あんなに粒の小さい胡麻を見上げるほど巨大なシステムで抽出しているのを目の当たりにした後につな八で天ぷらを食べると、遥かアフリカで芽吹き現地の人の手摘みで収穫されて船旅でようやく日本に着いた胡麻の存在が愛おしく思える。つな八では太白油と胡麻油を独自のバランスで調合し、それぞれ食材を揚げている。日本を訪れる多くの海外のお客様に、天ぷらという文化を食べていただきたい。本物の天ぷらを海外にも広めて行きたい。志村さんの視線は世界を見つめ、束ねた綱は力強く太い。

21第27回コツコツタイプ 咲いた花 いちかわ
嘉門タツオの「愛めし」第27回 コツコツタイプ 咲いた花 いちかわ(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

白金高輪に2017年に移転開業した寿司の「いちかわ」のご主人、市川克海さんは39歳。派手なパフォーマンスをするタイプではないし、口数もけして多くはない。地道にコツコツとやり続けて、しっかりとした重厚な花が咲いた。今やロンドンでミシュランの三つ星を獲ったあら輝さんが、未だ世田谷の上野毛にあった時に彼は入って来た。その前は京都の和食の名店、菊乃井で6年。修業中のある日、訪れた鮨割烹の大将が1人で切り盛りする姿に憧れて、鮨を学びたいとあら輝の門を叩いた。僕はその数年前からあら輝に通っていて大好きな職人さんだが、弟子との関わりが独特でことごとく反目してしまう。しかし気まずく辞めた弟子達がその後大成功するという、実に不可思議な一門なのだ。市川さんは親方の右腕として着実に力を付けて4年。今回こそは円満に独り立ちするはずだった。その方向に向かっていたのだが、親方はあと半年は手元に置いて最後の仕上げをしっかりやってから送り出すつもりだったと言う。一方市川さんは一刻も早く卒業したいという気持ちが募って来ていた。ある朝築地に仕入れに行った帰りに新橋演舞場の前で市川さんは切り出した。あの・・と言うと、親方は察して上がりたいのか?と聞いてきたので、はいと言うと、今ここで上がれと言われた。何という理不尽。でもこれがあら輝さんのやり方なのだ。程なくしてあら輝に行った時、親方はてんてこ舞いだった。仕込みを全て1人でこなさなければならないからだ。そんなリスクを背負っても弟子を厳しく切る親方と、円満に進まず途方に暮れる市川さんの屈折した師弟関係を興味深く見て来た。

その後市川さんは、あら輝さんが入っていた上野毛の店で看板を上げた。何度か伺ったが、まだ安定しておらず健闘はしているものの完成には至っていなかった。しかし着実に腕を上げ、満を持しての白金高輪へ進出。仲卸さんにも気に入られ、最上の鮪を分けてもらえるようになった。立ち振る舞いも自信に満ちている。なにより嬉しいのはかつて何度も通った上野毛あら輝のカウンターをそのまま移築されている事だ。酢飯や魚の切り方も含めて、あら輝イズムが引き継がれているのが嬉しい。

22第29回発酵料理人と天女伝説 徳山鮓
嘉門タツオの「愛めし」第29回 発酵料理人と天女伝説 徳山鮓(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

琵琶湖の北に位置する余呉湖のほとりに、徳山鮓はある。熟鮓(なれずし)で有名な発酵料理人、徳山浩明夫妻が営むオーベルジュだ。2013年、味わい深い鮒鮓を出すところがあると聞いて初めて伺った。それまでは正直言って鮒鮓にあんまり良いイメージを持っていなかった。しかし、その上品で深みのある香りを醸し出す鮒鮓を口にして驚き、未知の世界の扉が開いた。

浩明さんはこの地に生まれ、お父さんとお兄さんは漁もすれば猟もする。民宿も営み、鯉、猪や鹿等の肉を飲食店に卸す家で育った。自分も食の道に進もうと、高校卒業後京都で和食の修業をして、地元に戻り宴会も出来る宿泊施設の料理人となった。その頃友人の紹介で、大阪梅田でビューティーサロンのフロントをやっていた純子さんと知り合い結婚する。大阪から余呉に嫁いだ彼女も、夫がゆくゆく鮒鮓で有名になるなんて微塵も思っていなかった。自然に恵まれた環境の中で、3人の子供を育てる専業主婦としての日々を送っていた25年前、近くに日本発酵余呉研究所が出来て、発酵の権威東京農大の小泉武夫教授が所長に就任された。浩明さんが勤める施設が先生の定宿だった事がキッカケで人生が劇的に変わり始める。先生はなぜ料理に鮒寿司を使わないんだ、21世紀は発酵の時代だよと何度もおっしゃって、自分の役割を自覚した。確かに和食に欠かせない味噌、醤油、お酢や鰹節等は全て発酵食品だし、地元に伝わる鮒鮓に着目しない手はない。独立した後、ひたすら本を読み勉強した。純子さんは慣れない仕込みを無我夢中で手伝った。長年の経験と加減で行われていた鮒鮓作りに発酵学者の知恵が加わって完成度を上げて行き、その評判を聞いて全国から人々が訪れる様になった。鮒鮓のみならず浩明さんは漁もするし、山菜も取りに行く。鮎、鰻や熊等の四季折々の地元の食材を使った料理は素晴らしい。お嬢さんと息子さんも料理の道に進み、今では心強いスタッフとして2人を支えている。余呉には天女伝説がある。この地に舞い降りた天女は、地元の有力者に見初められ、嫁いでその一族は繁栄したという。天女の純子さんを射止めた浩明さんの人生は、今後益々旨味を増して行くだろう。

2026年 追記

ここ数年、毎年ライブをさせていただいている。お孫さん達もスクスク!

歌も作って毎年歌ってます。CD未発表。

♪ 発酵の歌~徳山鮓のテーマ~

発酵 発酵 ラランラランランラン
身体にイイのよ 発酵発酵
発酵 発酵 発酵 ラランラランラン
発酵天国 発酵発酵

醤油 味噌 キムチ 納豆 ヨーグルト
烏龍茶 鰹節 鮒寿司 チーズ
ぬか漬け 生ハム ピクルス アンチョビ
ワイン ビール 日本酒醸造酒

発酵 発酵 微生物が 働いて栄養価高めるよ 発酵 発酵 腸内 環境整えて 抗酸化作用アップアップ

琵琶湖の北にある余呉湖の畔
徳山鮓に鮒寿司食べに行こう
春先ニゴロブナせっせと捌き
塩に漬けたあと洗って干して
ご飯と交互に並べて重ね
重し乗せて ひと夏漬けりゃ

発酵 発酵 馴染んでくる
なれて来るから熟鮓発酵

発酵 発酵 発酵 真心込めて
家族が総出で 発酵発酵

導いてくれたの小泉教授
東京農大のその道の権威
発酵を真剣におやりなさい
試行錯誤の末完成した
評判を聞いて全国から
みんな余呉湖目指しやって来る

春は山菜 花山椒
氷魚は鮎の赤ちゃんだよ 走りの稚鮎 盛りの塩焼き 子持ちの落ち鮎まで楽しい
更に鰻 そしてジビエ
イノシシ鹿月輪グマ 熊の白い脂美味しい 冬の余呉湖は雪景色

発酵 発酵 跡取りも 腕を磨いて帰って来たよ おまけに子宝恵まれて
娘に出来たよ 孫孫

発酵 発酵 ララララランランラン
身体にイイのよ発酵発酵
ようこそ余呉湖 おもてなし
徳山鮓にみなさん ようこそ!

23第30回魂のマリアージュ 四谷三谷
嘉門タツオの「愛めし」第30回 魂のマリアージュ 四谷三谷(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

四谷三谷。最長で4年半待ちの寿司屋だ。三谷さんの飽くなき研鑽の先に現在がある。千葉県銚子市生まれ。お母さんは水産加工場で働いていて3時のおやつはカツオの佃煮だった。ショートケーキが食べたかったと幼少期を振り返るがやはり魚の道へ進む事になる。大手の寿司屋に始まり百貨店の店舗で職人として働く。ゆくゆく独り立ちしたなら個性を打ち出そうというイメージは熟成して行った。そして30代半ばで四谷に自分の城を持ち、数年で軌道に乗った。その仕事は例えばボタンエビの上に蟹みそと更にウニを乗せるというような、いわゆる足し算が多かったように思う。僕は2010年前後にほぼ毎月通っていたが、5年程ご無沙汰していた。久しぶりに伺うとその洗練された変貌ぶりに驚いた。三谷さん自らフランスへワインの買い付けに行くようになり、日本酒の蔵にも足を運び仕入れのルートが確立していた。お酒はほとんど飲めない三谷さんだが、少し口に含んで魚と合わせるマリアージュを考える。それが的確でブレておらず三谷ワールドは完成の域に達していた。翌16年には紀尾井町に2店舗目の出店も決まり順風満帆だったが元々良くなかった心臓が悲鳴をあげ、大きな手術をしなければならない。しかしそんな時に天使も微笑んだ。19歳年下の奥さんとの間に新しい命を授かったのだ。40代後半で初めて父になるという喜びも力となり、難しい手術は無事に成功した。三谷さんは術後のリハビリをしながら徐々に現場復帰して行った。今は一度は閉めようと思っていた四谷の店に絞ってカウンターに立ち極上の素材を最大に引き出し、珠玉のワインと日本酒で合わせる。ジャックセロスのシュブスタンスの乾杯に始まり、鰹には09年のモレサンドニ、ボタンエビと金目には04年のコシュドリのムルソー、穴子にカラスミを挟んで揚げた一品には山形の十四代、鮪には88年のジュブレ・シャンベルタンと言うように10数種類のマリアージュがめくるめく展開する。今も毎日リハビリルーティンをこなした後店に入る。その寿司を握る姿は、羽根を織り込みながら光沢鮮やかな織物を生み出す鶴の様だ。

2026年 追記

寿司の範疇から大きく飛躍されてニューヨークでも評判を上げておられます。こちらも歌を作らせていただきました。

♪ 鮨三谷の歌

15で鮨の世界へ
入って下積みの日々
ようやく握れる様になっても
追われるばかりの日々でした

少しずつほんの少しずつ
自我の様なものが芽吹いて
ここからもっと良くなるにはと
思いを巡らせていました

鮨は日本の伝統文化
伝統は守るばかりでは
続かないと気づきはじめて
変わっていく事に決めました

たとえひととき輝いても
やがて廃れてゆく様な
仕事では意味がない
たった一度の人生だから

鮨とお酒を合わせる事で
お互いの魂が重なって
広がる世界が
あるのだと気づいたのです

「シャンパーニュからワインはもちろん、お酒もお料理に最もふさわしいものをお出ししようと考えています。

中トロや大トロには、まろやかな旨味のあるものを。口の中で脂分・甘み・酸のトライアングルを完成させるためには、十四代特有の透明感が不可欠です。

蒸し鮑には磯の香りがふわっと上がる 中取り純吟が寄り添います

穴子や白身、焼き魚には山田錦を磨き上げた双虹(そうこう)がふさわしいです。

それぞれの個性を引き出し合わせて、これからも高みを目指して精進して参ります。」

魚を取り上げる漁師さん
流通させる卸しの人々
愛情込めて醸し出す
お酒の造り手の皆様

それぞれの思いをひとつにするのが
私達の役割なのだと
気づいて今日までやって来ました
迷いながら進んで来ました

美味しいのは当たり前で
説明だけでは事足りなくて
物語をどうお伝えするか
笑顔になっていただける様に

縁を繋いで行けますように
変わり続けられますように
感覚が鈍らないように
今日も皆様お迎えします

15で鮨の世界へ
あの日の気持ちを忘れずに

24第31回哲学の道は続く 草喰なかひがし
嘉門タツオの「愛めし」第31回 哲学の道は続く 草喰なかひがし(掲載紙面)
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京都、哲学の道のすぐ近くに「草喰なかひがし」はある。至近のライブハウスに20代前半の頃良く出演していた。懐かしい風景を眺めながら、10数年前初めて暖簾をくぐった。なかひがしさんの信条は「お竈(くど)さんで炊いたご飯に炭火で焼いた肴と山野草を添えて」で、店主の中東久雄さんは雨の日も風の日も毎朝必ず大原の野に出て草を摘む。季節の移ろいを肌で感じながら、繊細に美しく皿の上に表現される。歳時記を交えてのお料理の説明は、ユーモアがあって為になる。

生家は白洲正子や司馬遼太郎が愛した料理旅館で、14歳年上の長男が亭主をされていた。毎日一緒に野山を巡り、その日に使う山菜を摘んだ。次男の久雄さんがゆくゆく独り立ちをする事を前提に丁寧に指導してくれた。38歳の秋には藁半紙10枚に渡る手紙を渡された。そこには独立するに当たっての心構えや技術的な事などがビッチリと記されていた。それから数年後、お兄さんは55歳の若さでこの世を去ってしまう。3年後草喰なかひがしを開いた。教えを引き継ぎつつ独自の世界観を展開し始めると、全国からお客さんがやって来るようになった。

毎日野に出る久雄さんは、最近植物の声が少し感じ取れるようになってきたとおっしゃる。草を喰み、噛み締めて呑み込むと「魚と一緒に食べて!」とか「肉と一緒にして!」と草がいろいろ指示をしてくるそうだ。野草以外の食材も誰が何処でどういう思いで育ててどんな経路で自分の手元に届いたのか、関わった全ての方々に思いを馳せて感謝し料理する。味のある食材に出合い、味を壊さないように寄り添い計り収める。食材と対話をして味覚を楽しむ事は命を頂く事。その命を最大限に生かしてあげる事が使命だ。仕事は志を持って人の為に尽す事で、人の為に働く労働ではない。「志」は士の心。仕事の「仕」は己の心で人に尽くし仕合わせを与える事。中東家の哲学は、久雄さんが毎月寄稿されている「味の手帖」の文章にもわかりやすく記されているし、3人の息子さん達にも引き継がれている。

お兄さんは最後に「誇り高く平らに生きよ」とおっしゃったそうだ。

哲学の道は、果てしなく脈々と続いて行く。

25第32回肉のワンダーランド 又三郎
嘉門タツオの「愛めし」第32回 肉のワンダーランド 又三郎(掲載紙面)
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オーナー、荒井世津子さんの愛が満ち溢れた肉のワンダーランド、又三郎。

思春期に母を、社会に出て間も無くして父を亡くし、兄と共に全くの素人として89年に大阪長居公園の近くで「本格炭火焼肉専門店 又三郎」は船出した。ところが創業から半年で兄もこの世を去り、世津子さんは独りで航海を続けなければならない事に。10年程はいつ潰れてもおかしくない状態だったと言う。転機は2005年、ニューヨークでドライエイジング・ビーフ(熟成肉)を食べて目から鱗が落ちた。時間をかけてグリルされた厚切りの肉はその脂、芳醇な香りが自分の扱ってきたものとは全く違っていた。和牛で熟成をやってみよう。独自の研究・試作を重ねて完成度を高めていった。徐々に評判は広がり、現在では他府県や海外からもお客さんがやって来るようになった。土佐褐毛牛と黒毛和牛の中から熟成に耐えうるポテンシャルが高い肉のみを独自の熟成庫で2~8週間ゆっくりと寝かせる。温度、湿度と微かな風。肉の表面は黒く変色してカビが生えてくるがそのカビは芳醇な香りを放ち、肉の内面では酵素がタンパク質を分解しアミノ酸に変えてゆく。熟成されることによりアミノ酸の量が約4~10倍になり、肉本来の美味しさが最大限に引き出されるのだ。肉の乾燥変色した部分を取り除くと、鮮やかなロゼ色の肉の立方体となる。炭火の熱で麦わら帽子の様に湾曲した金網の上に肉を置き片面3分、裏返して2分焼いたら火から下ろしアルミホイルに包んで5分寝かせる。2回目の火入れは表裏合わせて5分で再びアルミホイルで5分。それをもう一度繰り返して40分が経過すると、肉と七輪は共に退場し、程なくして皿の上に美しくカットされて艶めく肉がお色直しで再入場。待ち遠しさが募り手早く塩を振って口中へ運ぶと旨味と香りが広がる。ブルゴーニュワインを流し込めば、両者は共に手を取り合って更に高みに導いてくれる。美味しいものをより美味しく食べてもらう為にひと手間を惜しまない。店のあちこちに女性ならではの美意識と気配りを感じる事が出来る。父母や兄の分まで生きる人生は、熟成を重ねて旨味を増してきた。

26第34回阿佐ヶ谷から日比谷へ 鮨なんば
嘉門タツオの「愛めし」第34回 阿佐ヶ谷から日比谷へ 鮨なんば(掲載紙面)
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難波さんと知り合ってまだ僅か4年程だが、これほど急激に上昇展開している職人さんを知らない。

現在はお弟子さんに任せている阿佐ヶ谷の店に初めて伺ったのは2015年の秋だった。2回転目の21時からだと、食べ終われば最終電車ギリギリの小旅行気分だった。鰹に玉ねぎを合わせたり、穴子はカリカリ香ばしいアテとしっとり艶のある握りが出て、それぞれに的確に合わせる純米酒がグイグイ進んだ。しかもお勘定を聞いてビックリ。数ヶ月先の席を確保して中央線のシートに身を任せ帰途に就いた。

何度か通う中で2018年にオープンするミッドタウン日比谷に入ると聞いた。何というジャンプアップ。社会人野球が大リーグに行く様なものだ。オープン直後に期待に胸を膨らませて初訪問した。設えも装飾も風格がある。そして寿司ネタとシャリの温度を品書きに記すという前代未聞の打ち出しをされていた。かねてから全ての食は温度によって良し悪しが決まるとは思っていた。長年温めて来た理想を満を持して実現された力強いメッセージが記されている。「鮨なんばは究極の一貫を目指します。舎利の硬さ、粘度、甘み、塩気、コク。種の切り付け、大きさ、厚み。気を付ける事は数多くあります。その中でも温度が最も大事だと思っております。最良の種と舎利。この二つが寄り添って、なんばの一貫の鮨です。」アオリイカは種が20度、舎利は36度。赤貝は種が15度、舎利は36度。車海老は共に上がって38度。中トロは種が24度、舎利は40度。この日は15通りの組み合わせが書かれていた。現在までの歩みをたずねると、高校時代はバイクが好きなヤンキーな日々で、20歳でたまたま寿司屋にバイトで入る。当初は寿司屋を目指していなかったが、23歳の時にこれでやって行こうと決断してあちこちの店を転々とする。32歳の時に荻窪で独立して5年。阿佐ヶ谷に移転して7年。そして44歳で日比谷進出となった。過去と現在とでは心意気も仕事も全く違うとおっしゃる。無口だが優しく不敵な笑顔の底には、ヤンキー時代に培った反骨精神が見え隠れする。同時代を生きるのが嬉しいと思わせてくれる職人さんだ。

27第35回富山に魅せられて レヴォ
嘉門タツオの「愛めし」第35回 富山に魅せられて レヴォ(掲載紙面)
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デビュー以来富山には何十回も伺っている。02年には、伊藤敏博さんと高原兄さんの3人でワライコンサートキャラバンというタイトルで滑川、立山、大沢野、庄川、小矢部、入善、高岡に富山市を回った。どの町でも歓迎してもらったが、まだ今ほどは富山の事を深く知らなかった。05年以降に串の坊の乾さんを通じて、岩瀬にある満寿泉の桝田社長と懇意になった。かつては北前船で栄えた町を美しく整備し、様々な芸術家や職人を旧家を改装して住まわせて創作活動をバックアップされている。人一倍富山愛が強い桝田社長が16年に伺った際に「今、富山ではレヴォです。シェフは関西人なので嘉門さんが行ったらきっと喜ぶと思いますよ」とおっしゃったので、大沢野のリゾートホテル雅樂倶のレストラン、レヴォを訪ねた。地元富山に特化した、ここでしか食べられない料理に唸った。シェフの谷口英司さんは大阪府生まれの44歳。和の料理人だったお父さんの背中を見て育ち、高校卒業後宝塚の旅館で洋食部門へ配属され、そこでフレンチに目覚める。神戸で学んだ後渡仏し、三ツ星レストランで修業。その後レヴォの前身「西洋膳所 サヴール」のシェフに起用され富山にやって来た。そして、14年に「レヴォ」としてリニューアルオープンさせた。そもそも、出来て20年になる雅樂倶という場所そのものが、コンセプトもデザインも独特の存在だ。部屋ごとに設えは違うし、芸術家達の作品が至る所で目に入る。眼前に漂う神通川のダム湖の湖面は昼は日光、夜は月光をたおやかに反射させる。そんな環境はもとより、そこで育つ豊富な食材に谷口シェフは惚れた。海の物や山の物に自分の哲学を反映させ、見事な皿を展開させる。今ではそのセンスと味を求めて、大勢の人が全国からやって来る。シェフとは全国の様々なイベントでも良く顔を合わせる。フットワークが軽く、自ら積極的に刺激を体験して昇華するタイプなのだ。現在の評判に甘んじる事は決してない。力を付けた後進にこの場は任せて更に交通の便が悪い山奥に移住し、そこにある物を最高の状態に料理するという計画が進行中だ。谷口シェフの引力はどこにいても必ず人々を引き寄せるだろう。

2026年 追記

伊丹空港至近「とんかつハウスとんとん」は谷口さんのお父様お母様のお店。お父様は鬼籍に。今はお姉様が手伝っておられます。冬の粕汁も大人気。

28第36回明るい 楽しい 美味しい 龍圓
嘉門タツオの「愛めし」第36回 明るい 楽しい 美味しい 龍圓(掲載紙面)
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浅草龍圓に初めて伺った時、栖原シェフに「嘉門さんのファーストアルバムのジャケットの写真の人は中学の先輩なんです」と言われた。サザンオールスターズのアルバム「人気者で行こう!」のパロディで「お調子者で行こう!」と名付けたアルバムだった。そんな会話から始まったお付き合いも、もう15年になる。10年前の結婚パーティーでは焼売を500個プレゼントしてくれて、今年の還暦パーティーの時も調子に乗ってお願いしてみたら、ホタルイカのペーストを練り込んだ特製焼売を350個いただいた。いつも明るく、熱心に語る栖原さん。お父さんは普通のサラリーマンだったが、食べる事が大好きな人だった。築地にお墓があったので、御墓参りの帰りにはよく銀座に食事に連れて行ってもらったそうだ。小学生の時に中華第一楼のフカヒレスープと餡掛け焼きそばを食べて衝撃を受け、中華方面に進路の舵が切られた。高校時代のバイトは全て飲食店で、卒業後中華料理店に就職し、29歳で独立する。最初は町の中華料理屋だったが、様々なジャンルの料理人と交流する中で意識が高まっていった。化学調味料無しの方針に切り替え、直接生産者に会いに行く様になる。美味い野菜は土壌や気候も大事だが、どんな人が作っているのかが最も大切であると気付く。農家には偏屈でコミュニケーションが苦手な変わり者が多いらしいが、1度打ち解けると誠心誠意接してくれるそうだ。栖原さんが目指したのは本場の中華料理ではなく、日本の食材を使って日本人が作る料理。食材や調理法を追求し構築していったところ、中国料理の範疇に収まるのも窮屈になったので、10年前から「中国小菜」の前置きを外して「龍圓」のみにした。メニューもコースオンリーになり、栖原ワールドを理解してくれるお客さんだけに料理を供している。25年をかけて少しずつ理想の形を築き上げて来た。今後も更にブラッシュアップを続けるとのこと。同時代を共に生きたい料理人だ。あ、先日店の前で開店を待っていると、還暦を迎えた僕が初めておまわりさんから職質された。ギターケースの中もしっかり調べられた。片栗粉入ってなくてよかったですねと栖原さんも苦笑い。

嘉門タツオが歌った!

29第37回奥深い麻辣の海 蜀郷香
嘉門タツオの「愛めし」第37回 奥深い麻辣の海 蜀郷香(掲載紙面)
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四谷荒木町にある四川料理の蜀郷香(しゅうしゃんしゃん)。いつ伺っても新たな料理を出してくれる大好きな店だ。フィナーレは毎回定番の四川春雨、麻婆豆腐と四川炒飯。炒飯と麻婆を口腔内で合わせると、複雑な奥深さとなって舌と脳みそは昇天する。その辛さで痺れた舌を復活させてくれるのはロゼワインがベストだと思っている。そして再び麻辣の海に漕ぎ出すのだ。秋口になると火鍋のシーズンの到来だ。鴨ビール、薬膳白湯と激辛麻辣の3種のスープをこだわりの具材を泳がせながら行き来するのが楽しい。

シェフの菊島弘従さんは40歳。和食や広東料理を経て、20歳の時に四川料理界の巨匠、趙楊氏に師事する。料理長に就任した後に独立し、もうすぐ10年になる。フロアは6歳年下のマダムが切り盛りする。年に1度シェフとマダムは本場四川へ。食材や香辛料を調達し、スーツケースにパンパンに詰めて帰国する。意外にも2人の出会いは料理とは関係のないレゲエイベントだった。出逢った頃マダムは花屋に勤めており、まさか料理人の妻になるなんて思ってもいなかったそうだ。メアドを交換して交際がスタートしたが、最初のうちは今後どうするべきか思いあぐねていた。しかしある日、シェフが本場の四川料理を作ってくれて食べたところ概念が180度変わった。こんな奥深い辛さがあるのか!この人の力になりたいと決心した。店を立ち上げ8年経った頃、子宝に恵まれた。偶然僕が予約を入れていたある日、店に向かっている道すがらにシェフから電話があり、妻が産気づいて苦しんでいるので直ぐに病院に行かなければなりません。今夜の予約をキャンセルしてもらえませんかと頼まれたので快諾。翌日シェフから、昨日はすみませんでした、無事に産まれて母子共に元気ですと電話があった。それは何より、おめでとうございますと言うと、妻にはお客さんをキャンセルした事を内緒にしてもらえませんかと頼まれた。お客様に迷惑をかける事を最も嫌うと言われたので、わかりましたと笑顔で答えた。父となったシェフは更に力強さを増してきた。出産の日にキャンセルした事は後日バレたが、難なく収まったそうだ。めでたしめでたし。

2026年 追記

お嬢さんも大きくなられましたー。春夏秋冬の火鍋も素晴らしいです。

30第38回スパイス天国 亜州食堂チョウク
嘉門タツオの「愛めし」第38回 スパイス天国 亜州食堂チョウク(掲載紙面)
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現在の大阪はスパイス天国だ。カレー、ガパオ、ナシカンダール等の様々な個性あるアジア料理の花があちこちに咲いている。元々東京に比べてよりアジアっぽいのが大阪だが、近年アジア各国から観光客が押し寄せ、アジア色に拍車をかけている。8年前からずっと通っているのが、大阪福島に開店して12年になる亜州食堂チョウクだ。チョウクとはヒンディー語の交差点、広場という意味で、アジア各国の料理が行き交い、具材が皿の上で混ざり合って旨味を増してゆく様子も表している。タイ、シンガポール、インド、マレーシア等の料理が、昼はアジアの大衆食堂の様に日替わりで、夜はコースで3~4ヶ国の味が楽しめる。んー、これは万博だ!僕は茨木で生まれ育ち、11歳の時に間近で大阪万博が開催されて、半年の期間中21回会場に足を運んだ。その影響で異国の文化に触れると万博や!と思ってしまうのだ。そんな万博を仕切るマスターの片倉昇さんは、専門学校を出てオーストラリアに渡った。そこで多くのアジア各国の人と仲良くなり、知り合った彼らの国に行ってみようと実際に訪ねて歩き、それぞれの国のご飯に魅せられた。その後何度も通い12年前にチョウクをオープンさせた。コンセプトはパスポートのいらないアジア旅行だ。僕も何度も伺う内に味と共に料理名も少しずつ覚えて来た。ミールスは南インドで出される定食で現地では手を使って食べる。サンバー(野菜の煮込み)、ダル(豆煮込み)、ポリヤル(野菜の香味炒め)、アチャール(インドの辛いピクルス)、ライタ(キュウリと玉ねぎのヨーグルトあえ)、お米はアジア料理に合うジャスミンライス(タイ高級長粒米)、そしてバナナが添えられる。ナシカンダールはインド系イスラム教徒のマレーシア食堂で出されるぶっかけ飯のことで、南インドの料理にマレー系の発酵調味料やハーブ、もやしなどの中華系の食材の6種が絶妙にマッチする。その他にもカオラトーゲン、カオマンガイにビリヤニ等、それぞれ異なるスパイスが香り、それらを混ぜ合わせながら食べるのが実に楽しい。スパイスは全て本場のもの。6年後の2度目の万博を待たずして、チョウク博をチョクチョク訪ねよう。

2026年 追記

昨年の大阪・関西万博よりも万博です。

31第39回お互いまずは80まで レストランキノシタ
嘉門タツオの「愛めし」第39回 お互いまずは80まで レストランキノシタ(掲載紙面)
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僕は今年還暦を迎えたが、意外と同い年の料理人と出会う機会は少ない。レストランキノシタの木下和彦さんは同学年。体格が良くコワモテの風貌だ。力強いが繊細で木下さん曰く、根性の入った味を求めて大勢の人が詰めかける。この世界に入ったのは遅くて、30歳目前だった。20代の頃は、自分で料理を作るという考えは未だなく、そろそろ進路を定めなければと思い、最初はなんとなくカッコいいしモテるかもという安易な考えでフランス料理店の門を叩いた。新人だが働いている若手の中では1番年上で皿拭きや掃除からのスタートだった。見た目がイカツイのでパワハラは受けなかったそうだ。5年間の修業を経て、洋食屋の雇われシェフに起用された。本来はフレンチをやりたいので、メニューからライスやパスタをなくして、自ら魚や野菜も仕入れに行き、少しずつフレンチにシフトさせて行った。程なくして予約の取れない店に成長させたが、独裁的な采配によるためか、後輩達が反乱を起こして、シェフが辞めなければ全員で辞めると言い出した。オーナーは引き止めてくれたが、ここは自分が身を引くと決断し、悔しさを活力に独立の方向へ舵を切った。最初は賃料の安い初台の商店街の外れにある10坪の店からのスタートだった。不動産屋さんも、あそこに入った店はすぐに潰れると太鼓判を押すような物件だった。ここでも焦らずジワジワと仕事を続けたところ、3ヶ月程でお客さんが付いて来るようになった。手狭になったので、5年後現在の代々木に転居した。ボリュームある美味しい料理とリーズナブルなお値段が更に評判を呼び、30席を多い時は15人のスタッフで回していた。代々木に移って18年になるが、現在は20席を4人のスタッフで回している。キャリアを重ねるに連れて、思いを込めた料理を自分の手からお出ししたいという思いが強くなり、目の行き届く造りに改装した。仕込みも調理もフレンチはとても体力のいる仕事だが80歳まではまだまだ成長してずっと美味しく向上し続けたいとのこと。同い年の僕も、ジャンルは違うが全く同じ考えだ。お互い80まで、古くならずかつ深みのある世界観を提供して行きましょう。

32第40回オイスターパラダイス 地下の粋
嘉門タツオの「愛めし」第40回 オイスターパラダイス 地下の粋(掲載紙面)
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築地交差点の角のビルの地下に、牡蠣専門店「地下の粋」はある。オイスターバーと呼ぶようなオシャレな佇まいではない。飲食店街の入口ドア横の、人が行き交う通路にはみ出して簡易なテーブルと丸椅子が配されており、そこで牡蠣を食べるのだ。通って7、8年になるが、常時10種類前後の新鮮な牡蠣をリーズナブルに満足いくまで食べられる。冬場は真牡蠣、夏は岩牡蠣をメインに、それらが混在する季節のグラデーションを感じるのも楽しい。

オーナーの片又孝幸さんは仲卸水産会社の三代目だ。病院や保育所に食材を卸しながら、築地のビルの1階で小売の魚屋も営んでいた。その魚屋の場所を'08年から夜は居酒屋として営業し始めると、折からのブランド牡蠣ブームで、全国各地の牡蠣人気が沸騰。そこで、空いていた地下のラーメン屋跡を新たに牡蠣専門店にしたら更に当たった。牡蠣が当たるのは宜しくないが、店が当たるのは小気味がいい。そもそも昭和の時代には大雑把に広島産とか宮城産などの区別はあっても、牡蠣を生産地の地名で呼ぶ事はほとんどなかった。最初は三重県の的矢が名を売り、各地の生産者が後を追った。何度も通う内に牡蠣という全体的な記号ではなく、生産地による違いを感じる喜びが生まれてきた。北海道は厚岸や昆布森、東北は宮城の志津川に気仙沼、岩手は赤崎等。寒くなるに連れて産地が西に移行し、兵庫の室津、坂越、山口の才川、長崎の小長井へ。25センチはある夏の伊勢志摩の岩牡蠣のダイナミックさには毎年目を見張る。頭の中の日本地図を追いかけて、その土地の海に思いを馳せながら開けたての牡蠣をジュルッ!冷えたシャンパーニュや白ワインをグビリ!海に囲まれた国に生まれた喜びを感じる。生牡蠣から始まり、蒸し牡蠣、焼き牡蠣やアヒージョへと進み、最後は魚介の骨で取ったスープのカレーでフィニッシュ。片又さんのおじいさんが仲間と始めた魚の卸し業だが、ターレーの無かった創業当時は大八車で魚を運搬していた。何度か伺う中でようやく、地下の粋のメインテーブルが初代の大八車の上にガラスを敷いたものである事に気付いた。3代目は移ろう時代の中で、牡蠣の伝道師として頑張っている。

2026年 追記

一階の広いスペースに移動されカッチョいい佇まいに。早い時間からやってます。

33第41回三代目夫妻が確立 比良山荘
嘉門タツオの「愛めし」第41回 三代目夫妻が確立 比良山荘(掲載紙面)
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京都市内から曲がりくねった川沿いの道をタクシーに揺られて1時間弱。ようやく比良山荘に辿り着く。池に放たれた鯉の飛び跳ねる水音を聞きながら、四季折々の地元の食材が楽しめる特別な場所だ。夏の鮎と人気の双璧である冬の熊鍋が定着したのはまだここ10年と聞いて驚いた。

元々、ご主人の伊藤剛治さんのおじいさんが1959年に登山者の宿として開業し、お父さんの代から料理屋にシフトし始めると、眼前にせせらぐ安曇川の鮎を目当てに京阪神からお客さんが通いだした。料理屋として軌道に乗り始めた矢先に40歳の若さでお父さんが急逝された時、剛治さんは未だ12歳だった。お母さんと料理人の方が家業を引き継ぎ、剛治さんは専門学校を出ていくつかの修業先を経たあとに戻って来た。最初の頃は鮎にいろいろ手を加えてみたりもしたが、お客さんからシンプルな鮎の味を求めて来たと諭され、塩焼きの技術を徹底的に追求した。お父さんの時は3尾で出していたのが、現在は7尾に。鮎ご飯も入れると10尾近くいただける鮎食べコースの人気が定着した。20年前には裏メニューだった熊鍋の評判がじわじわと浸透し、現在では冬の看板となった。雪深い季節に花が咲いたように美しく皿に盛られた月の輪熊の肉の大半は白い脂身だ。雪月花を体現しているところから「月鍋」と名付けられた。鍋から引き上げた縮んだ脂身を纏った肉は熊が食べているどんぐりや木ノ実の味がして、赤ワインと口中で合わせると月の世界を旅するかの様な夢心地になるだけでなく身体の芯からポカポカ温まる。

いつも笑顔で迎えてくれる女将さんは、なんと幼い頃、着物で接客する「女将」になりたいとなんとなく思っておられたそうだ。学生時代には北海道に住みたいとペンションでバイトをしたりもしたが、共通の知り合いの方から比良山荘の若旦那に良いのではと紹介され、剛治さんが経営の主導権を握る様になった頃に結婚した。二人三脚で様々なサービスを考えて向上させ、わざわざ行くべき店に育てた。いつ伺っても家族のように迎えてもらえる背景には、おじいさんの代から伝わる歴史と、現代を生き抜く2人の愛あるもてなしの精神が脈々と流れている。

34第42回昭和のたたずまい 神田まつや
嘉門タツオの「愛めし」第42回 昭和のたたずまい 神田まつや(掲載紙面)
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関東大震災後に建てられた風情ある店の暖簾を潜ると昭和の時代にタイムスリップしたかの様だ。相席で肩寄せ合って蕎麦味噌、焼き海苔、板わさなどをアテに、ビールや日本酒をチビリチビリとやっている親父さんの横で、箸を上手に使って蕎麦を手繰る外国のお客さんもいて、和気藹々とした空気が漂っている。

ご主人の小高孝之さんは6代目。中高生の頃は、常連だった作家の池波正太郎さんのお宅に年越し蕎麦を配達に行き、お年玉や本を貰った事もあるそうだ。跡を継ぐものと思って育ったが、お父さんから「大学に行って人の輪も育てて来なさい」と言われて進学し、卒業後店に入る。老舗の変えてはいけない部分と、変えなければならない所の見定めが重要だとおっしゃる。確かに、女将が帳場で昭和初期のレジに現金を収める姿は味があり、これが電子マネーに取って代わると情感がなくなる様な気もする。ビールはサッポロの赤星が常備してあり、それしか飲まないお客さんも多いと言う。日本酒は昔からずっと菊正宗一種類だが、更に純米酒やワインがラインナップされる事を期待する。増え続ける外国のお客様用に、近年写真付きのメニューを出すようにした。これは良案で、品書きを英訳するのは極めて難しいが一目瞭然でどんなものが出て来るか誰にでもわかる。このメニューが登場するまでは、客席を行き来して注文を聞く熟練のお姉さん達が質問に窮する事もあったらしい。

お父さんからバトンを受け取り、体力勝負の蕎麦打ちを続ける小高さん。若女将の貴子さんとの間に女の子3人と男の子1人がいる。食事の席でも時々ご一緒する貴子さんは、いつも笑顔が美しいお母さんだ。富山から大学進学で出て来てバイトの面接に来た貴子さんを小高さんのお父さんが気に入って採用されたそうだ。若旦那が東京のあちこちを案内デートして、彼女が卒業すると同時に結婚。小高さんが嬉しそうに話す4人のお子さん達の個性が面白い。長女は演劇、次女は鳥人間コンテスト、三女はチアで、長男は野球に熱中している。お父さんの背中を見て育った子供達の手も離れたので、今は貴子さんが帳場を仕切る。伝統を守りつつ、今後どの様に変化してゆくのか楽しみだ。

35第44回満を持して博多に 食堂セゾンドール
嘉門タツオの「愛めし」第44回 満を持して博多に 食堂セゾンドール(掲載紙面)
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博多に移転して、もうすぐ4年になる。その前は唐津市呼子にあった。いかしゅうまい発祥の店「海中魚処 萬坊」への桟橋を渡る手前に佇む、可愛いレストランだった。10年程前に初めて伺って以来、前山仁シェフのファンになり、唐津に宿を取って何度も出掛けた。同世代だからか話が合い、遅くまでワインを飲んで食について語り合ったりもした。盛り上がり過ぎて酩酊し、宿に転がり帰った事もある。ずっと佐賀県の地産地消にこだわってやって来られたが、博多に移ってからは更に食材の範囲を九州全土に広げての力強い展開をされている。ご両親は呼子の学校の先生で、子供の頃から美味しいものを食べさせてもらえる環境で育った。高専に進むが、勉強には背を向ける日々。卒業後、親戚が経営する洋食屋を手伝う中で料理の道に進もうと決めた。ならば修業せねばと、24歳の時からバブル最盛期のシーモールパレス下関の宴会場で超多忙な8年間を過ごす。その頃の料理人は睡眠時間は無くて当然、先輩に殴られるのも当たり前だった。だが、この時代に現在の基礎が出来たと振り返る。その後直方市の名門フレンチ梓屋で5年、西長門のリゾートホテルに移って4年半。そこに萬坊の社長が登場する。彼はシェフのお父さんの教え子で、実家は呼子の名家だった。幼少の頃から2人には接点があったのだ。評判を聞いて西長門のリゾートホテルを訪れた社長は、呼子の萬坊の横で現在イタリアンをやっているが、すぐに空けるし家賃もいらないのでそこで腕を振るってもらえないかと提案してきた。誘いに乗ったが、開店当初は閑古鳥が鳴く日々が。それでも少しずつ評判が広がり、県外からわざわざ訪ねて来てくれるお客さんも増えて人気店になった。そしてその先に博多があった。日本語とフランス語で自らが毎日書かれる達筆なメニューは、下関時代に身に付いたと言う。感性溢れる料理に対する質問をすると、素材や温度などについていつも丁寧に応えてくれる。計算と経験による熟練の仕事は揺るぎない。素材の良さを最大に引き出し、この地この時にしか味わえない最高の前山ワールド。白髪混じりな髭面と眼鏡の奥の優しい眼差しに会いにまた伺います。

36第47回日本料理界の偉人 京味
嘉門タツオの「愛めし」第47回 日本料理界の偉人 京味(掲載紙面)
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西健一郎さんに心から哀悼の意を表したい。京味さんへ伺って10年の新参者の僕に対しても、いつも丁寧に対応して頂いた。店に入るとまずナプキンを首から掛けて下さるのが面映ゆく嬉しかった。最初に伺った時、茄子のヘタを油で揚げた後に、甘辛く煮て黒胡麻で和えた「うてなの胡麻和え」という料理が出て来てヘタですか?と聞くと微笑みながら「実の方は賄いにします」とおっしゃっていたのが印象的だ。ご自身も積極的に外食に出掛けられ、目黒の焼き鳥屋「鳥しき」に初めて行かれた直後に、いかに良かったかを熱く語っておられた姿も忘れられない。お弟子さんも多く、皆さん各々が独り立ちして活躍をされている。ご自身が、お父様に料理人として育ててもらったという意識を強く持たれていたのだろう。お父様は、料理人番付西の横綱の異名を持つ西音松氏だ。伊藤博文の側近から総理大臣にもなった西園寺公望氏の料理人を務められていた。西園寺氏の食通ぶりは、かの魯山人も文章に残している程だ。西さんが17歳の時「料理人になれ」と言われ修業に出る。30歳の時に東京で独立するが、本当にお客様に満足していただいているのかと疑心暗鬼になり、既に引退されて丹波で暮らしていた70歳を過ぎたお父様に両手を付いて料理を教えて下さいと頼みに帰った。終始無言だったが、新幹線の切符を置いて帰り当日東京駅で待っていると、両手に調理器具を抱えたお父様が降りて来られた。それからは月の半分は調理場に立ち、言葉はほとんど交わさないが、様々な仕事をお亡くなりになる直前の86歳の時まで見せて下さったという。旬の素材に味を足すのではなく、あくまでもこちらから迎えに行くのが料理である。変わったものと美味しいものとは違うという教えを受け継ぎ、西さんは自分の弟子にも同じように伝えられた。

故郷の丹波で若い時に知り合ったという女将さんは、私の好きな鯛の頭を炊いたんをよう作ってくれました。娘さんは、運動会に白衣でお弁当を届けに来るのが恥ずかしかったけど、今はとても有り難かったと思っていますと。多くの味と人を残された西さんの教えは、これからも脈々と受け継がれていくだろう。

2026年 追記

西さんのお料理に間に合った事に喜びを感じています。忘れません。

37第48回渾然一体スパイスカレー 旧ヤム邸
嘉門タツオの「愛めし」第48回 渾然一体スパイスカレー 旧ヤム邸(掲載紙面)
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2014年に発表したアルバム「GO!GO! COME ON!!」に「カレーマイラブ」という曲を収録した。幼い頃に母が作ってくれたカレーも好きだったが、25歳の時にFM大阪が入っていたビルの地下にあったインデアンカレーと出会って虜になった。最初のひと口は甘めだが、食べ進むうちに優しい辛さが攻めて来て食べ終わる頃には頭皮から汗が吹き出す魅惑の逸品だ。カレーを歌いたい!その為にはいろんなカレーを体験せねばと思い、カレーの歌作り行脚が始まった。中でも大阪はカレー第2世代と呼ばれる店が続々と出店し、鎬を削っていた。その最中、2011年に「旧ヤム邸」は出店した。小麦粉を使わない日替わりのキーマカレーをベースに、季節の素材に和だしを合わせるなどのアイデア豊富なカレーの世界観を知って通うようになった。あいがけを頼んで食べ進むうちに渾然一体となってゆくのが楽しくて新しい。2年前には東京下北沢に進出し、今春その様子がNHKのプロフェッショナルで放送されて更に勢い付いている。

5年前にダイビル店に伺った時、お勘定をしていると男性が俊敏に近づいて来て話し掛けてきた。「この店をやってる植竹です。嘉門さんの歌のお陰で親父とのわだかまりがなくなり感謝しています」「え?」と聞き返すと「殆ど笑う事もなく、無表情だった父がラジオから流れて来た歌を聞いて爆笑して、それをキッカケに会話をする様になったんです。ありがとうございました」と僕に名刺を渡して、足早に去って行った。

つい先日、久しぶりにダイビルで植竹さんと再会した。5年前に僕の歌でお父さんと打ち解けたって言ってたけど、それはどの歌?と数年抱えていた疑問を投げると、「あったらコワイセレナーデ」の中の、オブラートで出来た◯ンドームという部分を聴いた父が今まで見た事がないほど爆笑して、まだ小学生だった僕が◯ンドームって何?って聞いたけれど教えてもらえなかったんです。でも、父も笑うんやと徐々に会話をする様になりました。そんな父も既に他界しましたが、こうして僕の店に嘉門さんが来てくれているのを喜んでいると思いますと。その歌のそこやったんかー(微笑)。

38第49回魚種の宝庫 魚津群 ねんじり亭
嘉門タツオの「愛めし」第49回 魚種の宝庫 魚津群 ねんじり亭(掲載紙面)
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富山で時間のある時は、あいの風とやま鉄道に25分揺られて魚津を目指す。「魚津群 ねんじり亭」の三浦さんの目利きと捌きによって美しく盛られる10数種類の白身魚オールスターズに会う為に。綺麗に切り分けられた刺身と、それぞれの名前が全て一致する域にはいまだ達していない。もちろん真鯛、鮃、鯵、オコゼ、鰈くらいは判別出来るが、キジハタ、黒平鯵、金時鯛、黒むつ、ほうぼう、フクラギ、カンパチ、コショウ鯛、目鯛、ゴマソイ、石鯛、オニカサゴやメゴチあたりになると、食べる度に名前を聞いて噛み締めて覚えたつもりが、次に伺ったときにはほとんど忘れてしまっている。三浦さんは、毎朝河岸に足を運んで、活けで取っておいて貰った物を選んで持ち帰り、自ら血抜きをして神経締めもされている。その味わいを三浦さんが惚れ込んだ富山の銘酒、満寿泉が見事に受け止める。白身魚はもとより、魚津で上がる毛ガニの塩茹でにむしゃぶりつき、更に鰤と炊いた飴色になった大根の美しい造形に箸を入れるのも楽しい。先日は、深海魚のげんげを天ぷらでいただいた。水分が多い魚ゆえ干物でしか食べたことがなかったが、ぶよぶよなゼラチン質の食感が褒め言葉になる程ツルリと喉奥に吸い込まれて行った。串の坊の乾さんと満寿泉の桝田社長のご縁で三浦さんと懇意になり、何度となく魚津を訪れるようになったのだが、元々は宮城県気仙沼のご出身である事を最近知った。高校を卒業後、飲食の道を目指して東京に出た時に知り合った奥様の実家が魚津だった。気仙沼に戻って独立する事も考えたが、圧倒的に魚種の多い魚津に魅せられ、32歳の時に腰を落ち着ける事にした。夫婦二人三脚で店は繁盛し、子宝にも恵まれた。だが残念な事に、10年経って店を新築する運びとなった完成検査の日の夜に奥様が45歳の若さで突然倒れられて帰らぬ人となってしまった。三浦さんは途方に暮れて店を閉めようと思ったが、大阪でパティシエをやっていたお嬢さんが代わりになると言って帰って来てくれた。それからもう20年が経った。お父さんと娘さんで暖簾をしっかり守っておられる。三浦さんの愛と自信に満ちた笑顔に会いにまた伺います。

2026年 追記

岩瀬に移られてますます洗練されております。

39第50回熟成粉男 麺亭はるもと
嘉門タツオの「愛めし」第50回 熟成粉男 麺亭はるもと(掲載紙面)
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名古屋に麺の妖精が居る。見た目は茶髪でピアスをしたスリムなロッカー風だが約30年に渡って麺の道を探求していて、仲間からは「粉男」と呼ばれている。

中心部から少し外れた場所にある麺の館は、一見地味な佇まいのラーメン屋だが、本性を悟られないよう鳴りを潜めて営業しているかのようだ。彼の麺を理解し支持する人のみを対象に、貸し切りでめくるめく麺の宴が開催される。父親が元々製麺業だったので子供の頃から大変な仕事を見て育ち、絶対に家業は継ぐまいと思っていた。ところが、成人式のお祝いにお父さんから贈られたのはなんと製麺機だった。……継ぐのかと割と自然に受け入れて経験を積む内に、麺の熟成に目覚めていった。そして、熟成に相応しいのはオーストラリア産の小麦であるという結論に行き着いた。焼きそば、冷やし中華、つけ麺、汁そば、それぞれに最適な状態で熟成させた麺が出て来る。練った塊で3週間寝かせ、麺の状態にしてから更に2週間熟成させたものや、アマゾンカカオやアリを練りこんだ麺もある。8キロの小麦粉を練って3ヶ月に渡り冷やしたり常温で置いたりして熟成させて、最終的に600グラムの珠玉の麺を生み出したりもする。日々、麺の状態を確認する事が必要なので長期の旅行には行けない。数日の場合は麺も同行する。チャーシューも豚バラをスライスして青魚の出汁、たまり醤油と味醂で煮込んで1週間位寝かせてから味付けを調節している。まずはチャーシューのみを醤油とわさびで食し、赤身は塩レモンで食べる。アードベッグ(アイラモルトウィスキー)をスプレーすると、更に旨味に奥行きが出る。

ある日の宴では、エゴマを挟んだ麺をだし油で炒めて焼きそばとして食べた後、セロリとゴボウと牡蠣のスープで煮込んで供された。その後は4種の麺をそれぞれ違う状態で熟成させた計8種の麺が醤油スープの中で時空を超えて絡み合うというモノだった。粉男にこれ、どうなってるんですか?と聞くとニヤリと不敵な笑みを浮かべて丁寧に説明してくれる。あまりに複雑過ぎる事もあり、まだ全てを把握出来ていないが、今後も粉男に導かれて果敢に麺のジャングルの探検を続けたいと思っている。

2026年 追記

完全予約制。粉男もますます熟成されております。

40第52回マイホームタウン茨木 哈爾濱
嘉門タツオの「愛めし」第52回 マイホームタウン茨木 哈爾濱(掲載紙面)
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僕が生まれ育った大阪府茨木市のJR茨木駅のすぐ近くに、水餃子が美味しい哈爾濱(ハルビン)はある。チャリンコに乗って自宅から母校春日丘高校へ通う途中の路地に、’83年に開店した。偶然にも僕がレコードデビューした年で、共に36年間歩んで来た。初代のおっちゃんは戦時中に10代で旧満州に渡り、炭鉱で働きながら炊事係をされていた。その時に食べた水餃子の味がずっと忘れられず、大手建材会社を56歳で早期退職して念願の店をオープンさせた。地元で評判となり、僕も早々に常連になった。寡黙なおっちゃんとは裏腹に、共にカウンターの中に立つおばちゃんは豪快かつにこやかで、紫色に染めた髪の毛が印象的だった。伺う度に、はよ結婚しーや!とずっと言われ続けた。誕生日にはいつもケーキで祝ってくれたし、市民会館でコンサートをした時は、係の人に「美女が来た、と嘉門ちゃんに伝えて!」と言って楽屋に花束を抱えて来てくれた事もあった。いつも笑顔で向日葵のようなおばちゃんが’00年に65歳の若さで急逝され、後を追うように3年後におっちゃんも旅立たれた。消えかけた路地の灯りを、独立されていた息子の秋田義人さんが引き継ぎ灯して16年になる。注文を受けてから薄力粉と水のみで練った生地を伸ばし、豚ミンチ、白菜とねぎを合わせた餡を包んで茹でる、ツルッツルの水餃子のしなやかな食感が大好きだ。同時に必ず注文するのが、ねぎ豚炒めで熱々のねぎ豚と水餃子を行き来しつつ、ビールをグビリ。わずか7坪、10席の小さな餃子パビリオンのカウンターに座り、この地で過ごした日々に思いを巡らせる。'70年の万博の時は、駅前からみんなが満員のバスに揺られて会場を目指した。人々がひしめいた曲線を描いたレモンカラーの歩道橋も健在だ。茨木駅は深夜でも貨物列車が通過する。カタンカタンと線路と車輪が刻むリズムも昔のままだ。36年間変わらない店内に入ると、おっちゃんとおばちゃんの写真が迎えてくれる。水餃子の肉汁を受け止め、ねぎ豚を噛みしめながらマイホームタウンがあってよかったとしみじみ思う。義人さんはせっせと餃子を包み、茹で上げられた餃子からは幸せの湯気が立ち昇る。

41第54回アルバからの不思議なご縁 ラ・チャウ
嘉門タツオの「愛めし」第54回 アルバからの不思議なご縁 ラ・チャウ(掲載紙面)
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'14年秋に、翌年に控えたミラノ万博の下見と称して、アルバからミラノを自主的に旅した。ミラノでは、日本人学校とライブハウスで「アホが見るブタのケツ」のメロディーに日伊友好のメッセージを乗せて♪ブォンジョルノ~ピアチェーレ~(こんにちは、はじめまして)とイタリア語で歌った。アルバには年に3週間、収穫時期のみに開催されているトリュフ祭りがあり、狙いを定めて訪れた。小さな町は大変な賑わいで、白トリュフを扱う店の店頭のショーケースの中には採れたての宝石がゴッロゴロと並んでいた。何店か巡る道すがら、「嘉門さんですか?」と声を掛けられた。ピエモンテが好きで、テニスのプレイヤーをやりながら地元のリストランテをプロデュースしたり、イタリアのワインを日本に紹介したりしている通称トミーという青年だった。彼に最良のトリュフを選んでもらい香りが漏れないように丁寧にパッケージしてもらった。翌日のランチは、リストランテ ラ・チャウ・デル・トルナヴェントを訪れ、丘の上から美しい葡萄畑を見下ろしながらフレッシュポルチーニやトリュフをふんだんに削ったタヤリンに舌鼓を打ち帰国した。この面白いご縁はここで途切れずに、翌年3月トミーからワイン生産者達を連れて東京で試飲会をすると知らせをもらい伺った。6つのメゾンの生産者を前に順次試飲をしていた時、恰幅が良くいかにも美味しそうな料理を作りそうな男性と隣合わせた。ラ・チャウの馬渡シェフで、試飲会の打ち上げを田町の自分の店でやると聞いてイタリア語の歌を引っ提げて伺った。♪ブォンジョルーノ~と2コーラスに渡って歌うと生産者のみなさんがブラボー!と拍手喝采してくれた。なんと馬渡シェフは僕が前年訪れたラ・チャウ・デル・トルナヴェントで4年半修業された経験がある事をその時に知った。オーナーの許可を得て、自分が独立した時の店名をラ・チャウにしたそうだ。その数ヶ月後、偶然にも僕はラ・チャウの近くに引っ越し、ちょくちょく伺うようになった。中でも、トミーの扱う本場のトリュフが入る晩秋は格別だ。トミーが繋いでくれた不思議なご縁で、満面の笑みのシェフが作る愛情溢れる本場ピエモンテ料理を楽しんでいる。

42第55回三池炭坑があった町 馬力屋
嘉門タツオの「愛めし」第55回 三池炭坑があった町 馬力屋(掲載紙面)
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僕は大阪出身だが、不思議なご縁で熊本県荒尾市の観光大使を10年以上務めている。最初に荒尾を訪れたのは'98年、グリーンランドでのFMの公開録音の時だった。前日入りして食事に行こうとホテルを出たら「馬力屋」という看板を発見し、入ってみたら大当たりだった。馬刺し、黒毛和牛や新鮮なホルモンに高い志を感じ、店主の谷川昌之さんと瞬時に意気投合してそのまま大牟田の町まで飲みに出かけた。翌年コンサートで再訪した際、リハーサル終わりで会館周辺をジョギングをしていると、広大な原っぱに躍り出た。自然のままの草原ではなく、雑草の合間にコンクリートの土台が垣間見え、所々に美しいたわわな葉を茂らせた楠が広場を見下ろしていた。炭坑住宅が密集し、人々がひしめき合って暮らしていた跡地だった。そうか、この町はかつて三池炭坑で栄えたが閉坑の後静寂が訪れ今を生きているのか。歴史を調べる程に僕自身の中に郷愁が湧き上がり「風が吹いてた~炭坑があった町~」という歌が生まれた。労働争議や落盤事故などの悲しい歴史もあったでしょうが、炭坑のお陰で今の日本の繁栄があるという事を広く伝えた方が良いと思います、と市役所の方に言ったところ観光大使に任命されたのだ。その後も世界遺産登録のイベントなどで足を運ぶ度に、馬力屋を訪れ黒毛和牛のテールスープに鹿児島県産六白黒豚のバラ肉をシャブシャブして食べる名物テール鍋をいただきつつ、希少部位のホルモンを噛みしめるのを楽しみにしている。谷川さんと知り合って間もない頃に、大牟田にあるコンビニ店ショップイシイの通称タル弁の存在を教わった。味付け海苔を敷いたご飯の上に、細かく刻んだゆで卵とマヨネーズを混ぜ合わせたタルタルをドバッとかけて更にその上に賽の目に切って揚げたイカのゲソを散りばめた弁当だ。寄り添うちくわ天、梅干しや塩昆布などをタルタルが絶妙にまとめていて、ボリューミーだがついつい後を引くので悪魔の食べ物と僕らは呼んでいるが、地元の支持率は絶大だ。荒尾に行くと馬力屋で肉を食べて、大牟田の町に飲みに出掛け、タル弁をテイクアウトするのが定番になっている。今日も心地よい風が荒尾の町を吹き抜ける。

43第56回次世代のスタンダード カンテサンス
嘉門タツオの「愛めし」第56回 次世代のスタンダード カンテサンス(掲載紙面)
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TBSのドラマ「グランメゾン東京」が面白い。ストーリーもさる事ながら、料理がとても魅力的に描かれている。それもそのはず、監修はカンテサンスの岸田周三シェフで、彼のスペシャリテが忠実に再現されているのだ。ドラマに登場する低温で長時間ローストされた肉の断面の艶や、ゲランドの塩とオリーブオイルを際立たせるための山羊のミルクのババロアを見ると岸田シェフの涼しげな顔が脳裏をよぎる。僕は現在の御殿山の前の白金時代からの大ファンだ。シェフの料理は、どれも驚きに満ち溢れていてさりげなくも美しい。愛知県で生まれ育ち、小学校の頃から共働きのお母さんと一緒に料理を作るのが好きで、卒業文集に将来は料理人になりたいと書いていた。中学の時に、お母さんが図書館で借りてきてくれた本で志摩観光ホテルの総料理長、高橋忠之シェフの存在を知り、家族旅行で志摩を訪れた際にラ・メールで彼の料理を実際に食べて、この人の元で修業しようと決めた。シェフの元で働きながら、更に見聞を広める為に休みの日には東京の店を食べ歩く中、恵比寿にあるカーエムの宮代シェフの料理に惹かれる。高橋シェフとは対極的な、フレンチの基礎を大切にする技法に触れて上京。その頃から既に30歳で自分の店を持つと決めており、それにはフランスでの経験も必要と26歳で渡仏。様々な店で修業した後に、アストランスでスーシェフを任された時には、気付けば31歳になっていた。引き止められるも、自分の城を持ちたいと帰国。2007年に白金でカンテサンスをスタートさせてからはずっとミシュランのトップを走り続けている。肉や魚の低温長時間ローストはアストランスで身に付けた技術で、日本の素材を活かす手法はラ・メールで覚えた。世界に発信する店を目標にして着実に研鑚を積んで来たシェフのルックスは華奢で、まるで少年のようだ。しかし、厨房に立つ体力を考慮して肉体トレーニングは欠かさない。伝統を踏襲しつつ、次世代のスタンダードとなる極上の料理を編み出す姿勢に憧れて料理の道を目指す若者も多い。日本のフレンチの向上を実践し、歴史に名を残す人物なのだ。岸田シェフと同時代を共に生きる喜びを感じる。

44第58回京味DNA くろぎ
嘉門タツオの「愛めし」第58回 京味DNA くろぎ(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

京味の西健一郎さんのDNAを引き継いで独立されている料理人は多い。その中でも最も精力的に展開されているのは「くろぎ」の黒木純さんだろう。芝大門に本店を構え、40歳前後の最も脂の乗った料理人達を率いて、見事な連携でくろぎワールドを繰り広げている。カウンター越しに提供する素材を見せて目を奪い、眼前での鮮やかな包丁捌きに見惚れる。黒木さんが京味に居たのは僅か5年程だったが、1番怒られたのは自分だと振り返る。以前、西さんに「黒木さん頑張ってますね」と言うと、「あいつはなかなかすばしっこいんですわ」と嬉しそうにおっしゃっていた。西さんがおせちを辞めて黒木さんが引き継いだ年は深夜まで仕込みが続き完成が危うい局面を迎えていた。深夜にフラッと西さんが現れて無言で手を貸してくれたという。気になる弟子だったのだろう。

ご両親が宮崎市で割烹を営んでいたので、学校から帰るとランドセルを置いて父親が魚を捌くのを見て育った。だが、最初から明確に和食を目指していた訳ではなく歌舞伎町のホストクラブのキッチンを経た後、料理人組合を通じて和食の店に入った。ようやく真剣に日本料理に取り組もうと思い始めた矢先に、偶然にも本屋で西さんの本に出会いその美しさと哲学に魅了された。ここで働きたい、と訪ねて行ったがアッサリと断られ、それでも諦めずに4回目に訪ねた時に、なんとか喫茶店で話を聞いてもらえた。熱意が伝わり、空きが出たらおいでと言ってもらえるも、ひたすら待たされた。その間市場で魚の捌きを勉強したり、寸暇を惜しんで働いていたら、3年後、21歳の時にようやく入れてもらえた。言葉遣いから礼儀なども含めて徹底的に仕込まれて、西さんの運転手も務めた。そして湯島で独立し、2年前に芝大門への移転も含めてフィールドが拡大し続けている。和スイーツや鯛茶漬けの店だけでなく上海にも進出し、地元宮崎では「実家くろぎ」を設けてご両親と妹さんに任せている。板場に立てなくなったら終わりと、肉体トレーニングも欠かさない。若い衆や後輩の面倒見も良いボスキャラなのだ。まだまだ発展するであろうくろぎワールドと同時代に生きる喜びを噛み締めている。

45第61回崎陽軒シウマイ弁当の歌
嘉門タツオの「愛めし」第61回 崎陽軒シウマイ弁当の歌(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

関東で多くの人々から愛されている崎陽軒シウマイ弁当の歌を作るべきだ!と僕の創作意欲を掻き立てたのは、大阪よみうりテレビの森たけしアナウンサーだった。早朝の人気情報番組「す・またん」を担当する森さんは、先日還暦を迎えられた。彼の「森ちゃんの今日もゆるゆる」というエッセイは、文字通り実に緩いほのぼのとした本なのだが、その中で崎陽軒のシウマイ弁当について書かれたところだけ熱量が突出して高く、いかに好きか、どのような順番で食べ進めるかなどについて綿々と強い筆圧で書かれていた。僕も以前からシウマイ弁当のファンだったので、その熱い思いを歌にするべきですと提案し、メールでやりとりしてシウマイ弁当に対するラブソングが完成した。発表イベントでシウマイの帽子と弁当をプリントしたTシャツを着て登場した森さんは恋情を熱く語り歌った。その後横浜の崎陽軒本社を訪ねて、社長の前でも歌い公認ソングになった。僕のアルバム「食のワンダーランド~食べることは生きること~其の壱」にも収録してコンサートでも一緒に歌い、昨年はカラオケのDAMの配信も始まり確実に歌は広まっている。森さん流の食べ方は、まずは右上の三角コーナーに詰め込まれた塩昆布と生姜を白米の上に救出するところから始まる。次にカラシを5個のシウマイに均等に付けて、更に醤油をかけて準備完了。シウマイ→ご飯→シウマイ→ご飯→唐揚げ→ご飯→筍→鮪の照焼→ご飯→シウマイ→カマボコ…と続いてゆく。ビールがあれば更に至福だ。俵ご飯は炊くのではなく蒸しているから独自のもちっとした食感が味わえる。シウマイの味わいをしっかりと受け止めて、旨みを口中に拡散させる。余裕のある時は6個入りのポケットシウマイも援軍として参加させると更に楽しみが増すし、贅沢して貝柱をふんだんに使用した特製シウマイを購入するとハイソな気分が味わえる。駅に向かう時から既にシウマイ気分になっているにもかかわらず時として品切れの事もあるが、そんな時は膝から崩れ落ちそうになり喪失感が全身を襲う。なんとも引きが強く、完成度の高い魅力的な弁当なのだ。僕と森さんの熱い思いを、是非歌を聴いて感じてもらいたい。

嘉門タツオが歌った!

46第62回テイクアウト3題
嘉門タツオの「愛めし」第62回 テイクアウト3題(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

今回は、僕のお気に入りのテイクアウトを紹介します。先ずは、鶏肉一筋65年の信濃屋さん。JR五反田駅から目黒川を目指し、渡って左に曲がった川沿いに看板が煌々とライトアップされている。鳥取県で丁寧に育てられた大山鶏が直送されてきて、店の奥の作業場で毎日300羽が捌かれる。全て手作業である事が重要なのだ。唐揚げは鶏の脂で揚げてあるので、旨味が馴染んで味わい深い。これを食べてしまうと、他所が見劣りしてしまう程だ。これには断然ビールが合う。もも肉照焼の豊潤で弾力ある食感に舌鼓を打ち、捌きたてのレバーとハツは胡麻油を敷いたフライパンで軽く炙りわさび醤油で食す。これには赤ワインが欠かせない。唐揚げは、差し入れすると人気が集中する。鶏スープを買って来て鍋をするのも楽しい。一族経営の結束力と笑顔の接客が素敵な店だ。

ここ数年は吉祥寺でレコーディングする事が多いが、その時の定番は北口商店街にあるさとうの元祖メンチカツと激うまコロッケだ。国産黒毛和牛を扱う精肉店だが、メンチカツに行列が出来る店としても有名だ。スタッフがせっせと衣をつけてアツアツの揚げたてを、販売スタッフが的確に提供してゆく。メンチカツは1個240円だが、5個以上買うと220円になるのも嬉しい。並んでスタッフ分も購入してからスタジオ入りするのがルーティーンだ。ここ近年の僕の歌声には、メンチカツパワーが加味されているのだ。

大阪人のソウルフードの一つは、間違いなく阪神のいか焼きだろう。僕も20代の頃から何枚食べて来た事か。1日10,000枚売れているそうだ。阪神デパートの地下にある阪神スナックパークの名物で、こちらも必ず行列が出来ている。いかの姿焼きではなくコナモンに分類される。ダシと合わせた小麦粉に細かく切られたゲソを練り合わせた生地を熱した鉄板で上下からプレスし、特製ソースを塗って食べる。僕は玉子の入ったデラバン206円が好きで、東京に移り住んだ後も帰阪すると行列に並んでいる。類似のいか焼きも存在するが、元祖阪神には敵わない。ライブの差し入れにも最適で、必ず誰かが持って来てくれるのも嬉しい。僕の生活に欠かせない品々だ。

47第63回コブクロにのけぞる なごや飯
嘉門タツオの「愛めし」第63回 コブクロにのけぞる なごや飯(掲載紙面)
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デビュー以来、何百回と名古屋の地を訪れて来たが当初「なごや飯」という言葉はまだなかった。’01年に外食企業ゼットンの稲本氏が当時東京で流行っていたイタ飯に引っかけて広めたのだ。僕も名古屋の代表的な食を取り上げて、手羽先、味噌煮込みうどん、櫃まぶし、小倉トースト、みそカツ、寿がきやラーメン、あんかけスパ、コメダ珈琲のシロノワール、きしめんが登場する「なごや飯」を歌っている。

今池にあるライブハウスのボトムラインのステージにはもう70回以上立っていて、ステージ終了後は必ずオリジナル中国料理ピカイチで栄養補給をしていた。ドラゴンズファンの聖地として有名だが、料理も素晴らしいアットホームな店だ。イカのトンビピリ辛炒めや揚げたゴボウと細切り肉の炒めでビールをグビグビ。ピカイチ風冷しゃぶや大根と白肉のトロットロ煮込みには生姜の千切りを入れた紹興酒が合う。シメの辛さが選べるピカイチラーメンで英気を養った。ちなみにライブの楽屋には昭和35年からみなさんに愛されているコンパルのエビフライサンド、ヒレカツサンドに玉子サンドを入れてもらっている。

ピカイチと同じく今池にある中国南北酒菜味仙も大好きな店だ。台湾ラーメン発祥の店で、5階建て290席の本店はいつも喧騒が渦巻いている。これだけの人数を捌くスタッフの動きも敏速で清々しい。ここではコブクロが外せない。ニンニクを効かせた口から炎が出そうな唐辛子の旨辛さにビールが進み、箸が何度も皿と口を行き来する。わざわざ行かなければ食べられなかったのだが、5年前に名古屋駅のうまいもの通りに出店されてから俄然チャンスが増え、気付けば行列に並んでいる。新幹線で移動する前の癒しの止まり木で、辛さにのけぞる回数が増えた。栄養バランスを考えて、青菜炒めとペアでオーダーする。そんなカジュアルななごや飯の他にも、一流の名店が実は数多くある事を知ったのはまだ近年の事だ。名古屋の人は自分達が食べている美味しい物をおいそれと外の人に教えないという傾向があるという。そんな固い扉も、SNSの進化と食通の友人の導きによって次々と開きはじめた。尾張の懐の広さを益々実感している。

嘉門タツオが歌った!

48第64回鮎の甲子園 利き鮎会
嘉門タツオの「愛めし」第64回 鮎の甲子園 利き鮎会(掲載紙面)
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毎年9月になると高知を訪れている。「清流めぐり利き鮎会」に参加する為だ。もう既に22年も続いているこの会は鮎の甲子園と呼ばれており、昨年は全国63河川から2850尾の鮎が一堂に集められた。300人を超える観客が利き鮎をして優勝を決めるという催しだが、実は全国の河川の環境を美しく維持する為の啓蒙が主な目的だ。このイベントの存在を教えてくれたのは、土佐市の風光明媚なオーベルジュ、ヴィラ・サントリーニのオーナー大井史子さんで、毎年高知龍馬空港まで迎えに来てくれる。利き鮎会に向かう前に先ず目指すのは、久礼大正町市場の田中鮮魚店だ。漫画土佐の一本釣りの舞台として有名な町だが、この時期にしか食べる事が出来ない宗田鰹の赤ちゃんを食べる為に足を運ぶ。朝釣れた30センチくらいの新子は、午後には味が落ちてしまうので町の外には流通しない。久礼出身の人々はこれを食べる為だけに里帰りするくらいで、淡麗でクニュクニュの食感が楽しい。少し甘めの醤油に地元特産の柑橘類仏手柑(ぶしゅかん)をたっぷり搾ってわさびを添えた切り身を噛み締め久礼純米酒を流し込む。至福の時に感謝する。その後市内に戻っていよいよ利き鮎会だ。ホテルの大宴会場を十分割し、そこにテーブルを並べて予選場を設置。Aテーブルの1番目の保温ディッシュの鮎達にはA-1と記され、各テーブル6台のディッシュに塩焼きされた各地の鮎が約40尾盛られて山脈のように連なっている。観客が一尾ずつ手に取ってまずは形を見て、香りを確認した後、身とワタをそれぞれ口に含み吟味する。5段階評価の点数を用紙に書いて集計の後、各テーブルの1位が選ばれる。面白い事に、どのテーブルも美味しい鮎から無くなってゆく。そして上位10尾に選ばれた鮎を5人の特別審査員が更にテイスティングして優勝を決める。僕も決勝の審査をさせてもらっているのだが、大きさも香りも味もそれぞれの個性があって鮎の奥深さを毎年感じている。昨年栄冠に輝いたのは岐阜県の和良川だった。通算4度目の優勝で、鮎の横綱だ。繊細で品格のある鮎という魚をこのような形で味わう事が出来る会に今年も参加して、ゆくゆくは鮎の歌を歌いたい。

49第67回通って30年 岡山・広島の名店
嘉門タツオの「愛めし」第67回 通って30年 岡山・広島の名店(掲載紙面)
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30年以上通っている大好きなカツ丼が岡山にある。「だてそば」のそれで、薄めの豚肉をカラッと揚げた上に中華スープで伸ばした特製ソースがかかっており、別の器に入った生卵を丼の真ん中に窪みを作って鎮座させる。食べ進め混ざり行く程に旨みが広がってゆく。因みに、この店は支那そばも旨い。鶏ガラのみを練炭の火力で炊いたスープは褐色で香ばしく、それぞれをハーフサイズで頼んで両方味わうのがオススメだ。厨房を仕切るお母さんの声が縦長の店内に軽やかに響く。先代の父が60年以上前に始めた店を、娘の彼女が30数年前に引き継いだ。「どこの豚使ってますの?」「上等なヤツ」「ラードはどんなの?」「スゴイええヤツ」「パン粉は?」「最高のヤツ」。いつもにこやかにはぐらかされる。良い素材を彼女の愛情が更に引き上げ、みんな笑顔で店を後にする。

お隣りの広島で、同じくらいの年月通っているのが新華園だ。広島つけ麺発祥の店だが、ここでは冷麺と呼ぶ。仏頂面で不機嫌に店を仕切っていた親父さんは今や後方に退き、パワフルで大柄な娘さんが前面に立ち采配している。店にはいろいろとルールがあり、慣れるまでは戦々恐々だった。まず店に入っても勝手に席に座ると怒られるので、入り口付近で静かに待つ。促されて初めて着席し、私語は厳禁。残すなど以ての外で、勘定はカウンターのザルに入れて、お釣りは自分で計算して自主的に取る。写真を撮るなど論外だ。常連さんとは広島カープの話で盛り上がる。僕も通い始めて10年を過ぎた頃から、娘さんからこないだテレビ出とったななどと声をかけてもらえるようになった。ガラスの器一面に韓国唐辛子と胡麻が浮かんだ真っ赤なつけ汁に、山盛りの茹でキャベツ、さらしネギにゆで豚そして硬めの麺を各々潜らせてから啜るとラー油と胡麻の風味が口中に広がる。刺激的な酸味と辛味を、キャベツの甘さとネギのシャキッと感が緩和し、冷たい麺の喉越しが心地良い。親父さんは夜明け前から厨房に立ち、大量の野菜を切って湯がいて冷やし開店に備える。丁寧で誠実な仕事を正しく受け止められない客には厳しいのだ。この店のキャスト達も、辛さの奥に人間味があって大好きだ。

50第69回ラブイズ・ギョーザ
嘉門タツオの「愛めし」第69回 ラブイズ・ギョーザ(掲載紙面)
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各地で餃子を食べてきた。全国に名を轟かせているのはご存知の通り浜松と宇都宮で、毎年消費量を競っている。どちらの街もライブに行くと楽屋に餃子を差し入れしてくれるし、餃子の話を振ると目が輝き出すのが面白い。

20代の頃に良く行ったのは、昭和30年創業の大阪北新地にある元祖一口餃子の天平だ。カリッと連なって焼かれた餃子を50個くらい注文して、食べてはビールを飲み、キュウリの漬物でリフレッシュしては餃子に戻る。

三重県四日市に行った時に知ったのは、新味覚という名前の店だった。創業者が、これは今までにない画期的な味だ!と自信を持って屋号を付けたそうだ。辛い特製ニンニクのラー油漬けをタレにタップリ投入して餃子を潜らせて頬張る。ドリンクメニューの牛乳は昔からの定番で、これがまた妙に合う。

岐阜の人気店岐州には、寒空の下2時間並んだ。お客さんの目当ては、口に含むとスープが溢れ出す小籠包のような餃子で、店内をチラ見すると店主はガスマスクを付けてフライパンに向かっている。油分を防御しているのだろう。時々無言でギロリと店内を見渡し、尻の長い客にプレッシャーをかけている。ようやく僕達の順番になり、餃子と炒飯を美味しくいただいて早急にビールで流し込んで怒られないようレジに向かう。すると店主がマスクを外して駆け寄って来た。何かミスを犯したのかとビクビクしていたら、「ずっと中京テレビの深夜番組見てました!」と満面の笑みで握手を求められた。実はええ人やったんや。

高知にコンサートで行った時は、川沿いの屋台に行った。この地では飲みに行った後のシメに餃子を食べる。薄皮餃子の安兵衛は、今や東京進出も果たして人気を博している。

長崎にある宝雲亭では、一口餃子と卵のニラとじにウスターソースをかけて合わせていただく。

福岡県大牟田の福龍軒の具が細かく滑らかな餃子も大好きだし、仙台KUROMORIは震災後この地に移住し、時折餃子教室を開いては地域のみなさんから支持されている。

デビュー以来40年近く旅を続けてきたが、まだまだ辿り着けていない餃子が山ほどある。ゆくゆく「ラブイズ・ギョーザ」という歌を作ろうと思っている。

51最終回愛めしを追いかけて
嘉門タツオの「愛めし」最終回 愛めしを追いかけて(掲載紙面)
© 日刊ゲンダイ

還暦にちなんで、僕の好きな飲食店の事を60回書き記しておこうと思い、この連載は始まりました。お陰様で好評を頂いて、番外篇10回を加えて計70回、1年4ヶ月に渡って無事連載を続けることができました。

様々な仕事で旅に出る暮らしを長く続けています。訪れた土地の食べ物にも魅了され、いつからか料理人の哲学に深い感銘を受けるようになりました。どういう思いで、どんな影響を受けて現在のこの料理が出来上がったのかという点に興味が移り、ただマニュアル通りに並べられた「記号」のような食べ物では物足らなくなってゆきました。

そもそも、母方の祖母は戦後大陸から引き揚げて来た後、山口県徳山の自宅マンションで「花田クッキングルーム」という料理教室をやっていました。里帰りする母に連れられて、小さい頃から若いお嬢さんに料理を楽しそうに教える祖母の姿を見て育ちました。母の料理もいつも美味しく、高価な食材ではないけれど豊かで愛のある食事に恵まれて育ちました。16歳で鶴光師匠に弟子入りした際は、繁華街で育った師匠の奥さんから今まで知らなかった街の食をたくさん教えてもらいました。

デビューして旅を生業にするようになると、その土地でしか味わえない物にも随分出会いました。それぞれの違いを理解したくて、30年前のツアーでは全国60箇所訪れた町で必ずラーメンを食べるという課題を実践し、尿酸値が急上昇して痛風発作に泣かされたりもしました。そんな中、ラーメン店のみならず、お気に入りの店に何度も通い料理人の皆さんと語る中で、人との相性を含めての好みが明確化されてきました。料理王国という専門誌に一時期連載をしていた事も、より料理を深く知るキッカケとなりました。高慢な人が作る料理はどこか高慢な味がするし、知識や経験のない料理人のものは、満足度に欠けます。熱意や丁寧さは武器になるし、もちろん天才も存在します。

60歳を越えて、あと何年美味しく食べられるのかと憂う思いも頭をよぎる中で、もはやどうでもいい物は食べまいという決意のようなものも生まれています。そしていつまでも、愛のある「愛めし」を追いかけていこうと思っています。

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